城 山 付 近

平田靱負屋敷跡・銅像
          

美濃、伊勢、尾張300ヶ村の救世主−語りつがれた世紀の大工事、木曽川治水

 「住みなれし里も今さら名残にて、立ちぞわずらふ美濃の大牧」という辞世を残して切腹した平田靱負は、木曽川治水工事の総奉行として世紀の大工事を指揮した。
 宝永元(1704)年、平之町に生れた平田靱負は、初め宗武、後に正輔、通称も平蔵から兵十郎、掃部、靱負と改め、31歳で父正房の跡を継ぎ、しばらく江戸薩摩藩邸に勤めた後、伊作や大口の地頭、大目付を経て、最後は家老の職にあった。
 宝暦3(1753)年、島津家第24代重年は、幕府から木曽、長良、揖斐の三河川の川普請手伝役を命じられ、1000人の大部隊を現地に差しむけた。
 幕府役人の圧迫と妨害、工事中の洪水、流行病の発生、人手や資金の不足等々想像を絶する難工事が待っていた。

 苦難の末、見事工事を完成させた平田総奉行は、多大の犠牲への償いと予算超過の責任を取り、宝暦5(1755)年、美濃国大牧の本小屋で自刃した。享年51歳、遺骨は京都伏見の大黒寺に葬られている。

アクセス 平之町5 平田公園
調所広郷邸跡
調所笑左衛門広郷邸跡

 薩摩藩は、木曽川工事や参勤交代の費用等が重なって、天保年間、莫大な借金に苦しめられた。この時、島津家25代重豪から、幕末の非常時に備えるために50万両と、他に金を蓄えること、及び借証文の取り返しを命ぜられたのが、調所広郷だった。

 調所は奄美の黒砂糖を専売制度にし、借金は250年賦で支払うことを商人に納得させるなどして、藩財政を立て直した。甲突川の改修や天保山の造成、五大石橋の建造なども行った。

アクセス 平之町5 平田公園北
医学館跡
          
 明時館、演武館、造士館などを設置し、名君とうたわれた島津25代重豪は医学にも関心が深く安永3(1774)年造士館の南隣に医学院を設立した。江戸の医学館を模範として「学規八略」を定め、医学書の講義や討論を行わせた。また、希望者には足軽、町人にいたるまで出席を許し、聴講させていた。
アクセス 写真左 中央公園の国道225号線沿い  写真右 照国町15 中原別荘前の国道225号線沿い
演武館・造士館跡
          
 島津重豪は、安永2(1773)年、有能な人材を育成するため、鶴丸城前のこの広い敷地に藩校・造士館と演武館を創設した。造士館では、教授・助教・都講などの指導者のもと、8歳から22歳の城下士子弟数百名が朱子学を中心に多様な教科をを学んだが、庶民の聴講も許されていた。中国高官や琉球国王の扁額が掲げられているように国際色豊かで、唐通事や朝鮮通事という通訳官も育成された。
 演武館は、剣術・槍術・弓術・馬術など、武芸の中心道場であった。示現流剣術の東郷家、御家伝犬追物の川上家など師範22家が厳しき指導にあたった。
 両施設の運営資金は藩から与えられ、生徒から学費は徴収しなかった。
アクセス 写真左 中央公園の南側入口  写真右 県道25号線沿いの中央公園内
照国神社
御祭神は照國大明神である島津斉彬

島津斉彬の功績は多々ある。

 鹿児島の磯に「集成館」という工場群を築き、ここを中心に、造船・製鉄・紡績・電信・ガラスなどの様々な事業に取り組んだ。
 
人材育成のため教育にも力を注ぎ、西郷隆盛や大久保利通など有能な人材も育て上げた。
 
今の時代でも大切な「殖産興業」と「人材育成」ですね。

アクセス 照国町19 照国神社
賞典学校跡
 明治7(1874)年6月、西郷隆盛はこのあたり一帯に士官養成のための幼年学校をつくった。この学校は、西郷隆盛・桐野利秋・大山綱良らの明治維新の功労に対する賞典録10万石をもとにつくられたので、賞典学校とも呼ばれた。

 篠原国幹監督のもとに漢学を教えた久米田鼎蔵、洋学を教えた元大学南校(現在の東京大学の前身)教師深見有常、外国人教師のシケーベル(オランダ人)、コップス(イギリス人)らの講師が教育にあたった。この学校では、外国留学制度をもうけて、明治8年に3名、翌年に2名を留学させた。

 また庄内から、伴兼之・榊原政治もこの学校で学んだ。

アクセス 照国町19 照国神社内 社会保険センター駐車場に面したところ
戊辰戦争戦死顕彰碑
 戊辰之役とは慶応4(1868)年1月、京都鳥羽伏見で薩摩長州両藩が徳川幕府討伐の戦端を開き、翌年5月函館五稜郭の幕府軍を降した戦い。
 これによって明治新政府誕生の基が定まり、わが国は近代的な統一国家となり、植民地化を防ぎ、独立が守られた。
 当時の日本は、黒船来航以来西欧列強の脅威にさらされ国内では封建制度が行きづまって内外ともに混乱していた。
 第15代将軍徳川慶喜が大政を奉還し、新しい政治体制が求められる中で、公武合体派が斬進的改革を主張したのに対し、中途半端な妥協では封建体制は打破できないと薩長両藩は断固として倒幕を進めた。
 その結果大局が動き、諸藩連合の新政府軍の中で、薩摩藩は常に先頭に立って奮戦し、この歴史的な大転換劇に最も重要な役割を演じた。
 薩摩から8千余名の人々が参戦し、6百名をこえる戦没者と多くの戦傷者を出した。

 このたび我々有志が維新ゆかりのこの地に戊辰之役戦士顕彰碑の建立を発起しました。
 戦没者の御霊を弔うとともに、参戦された方々が名君島津斉彬公の遺志をついで西郷隆盛、大久保利通ら優れたリーダーに率いられ、藩を挙げて勇躍新政維新の旗をかざして進まれた勇姿を思い出すよすがとし、併せて戊辰之役に戦没された敵味方慰霊の念をこめてこの碑を建てた次第です。

 平成9年9月8日 明治維新 戊辰之役戦士顕彰碑建立期成会(碑文より)

アクセス 照国町19 照国神社内 島津斉彬銅像横
島津斉彬銅像
 文化6年9月28日江戸薩摩藩邸に島津斎興の長男として生れる。
 弘化3年父斉興の重臣及び側室由羅の方らがその子久光を継嗣にしようとの動きから斉彬を推すものたちが大量に処刑された高崎くずれが起こる。嘉永4年老中阿部正弘らの後援を受け42歳で第28代薩摩藩主となり、お国入りを果たす。安政元年 江戸に参勤し、幕政に参画する。
 安政2年国産初の蒸気船雲行丸の試運転に成功する。安政4年造士館及び演武館に関して下した10ヶ条の訓論は斉彬の教育に対する根本理念を示したもので斉彬の教育者としての偉大さを覗わせる。安政5年天保山調練場に銃砲隊の繰練を閲し、その帰途病を得て急逝した。11月15日。54歳。
アクセス 照国町19 照国神社内
島津久光銅像
 文化14(1817)年10月24日生まれ。斉彬の異母弟。はじめ一門島津忠公の養嗣となり、大隅国重富1万4000石を領した。嘉永4年斉彬が藩主となるや藩治外交に就いて久光の意見を聞き、安政5年7月斉彬没するに臨み、遺命によって久光の長子茂久(のち忠義)を後嗣とし、久光を後見たらしめた。文久元年久光は重富家を出て宗家に復帰し、「国父」の尊称を受け藩政の実権を握った。久光は大久保利通ら藩内有志の脱藩事件を契機としてかれらを「誠忠士」と称し、挙藩一致国難に当らせるのに成功した。同2年4月久光は1000余の藩兵を率いて上京、国事周旋に当り、激派有馬新七らの伏見寺田屋事変を抑え、挙国一致の方向を堅持した。

 ついで勅使大原重徳を擁して東下し、幕政改革を命じて公武合体運動の中心人物となった。江戸よりの帰途生麦村において行列横断の英人を殺傷した生麦事件を起し、その結果翌3年7月の薩英戦争となった。文久2年後半から3年の前半においては長州藩の激派勢力に押されたが、3年8月18日の政変後再び上京して雄藩による公武合体派連合をはかったが実現しなかった。以後の禁門の変、征長の役、薩長同盟へと進む公武合体を乗り越えた倒幕運動の政局には西郷隆盛・大久保利通らの指導が強化された。王政復古後は政府の開明政策に不満で藩地にとどまることが多かったが、征韓論の分裂による明治政府の弱体化に備え、明治6年勅使派遣により上京し、内閣顧問から7年左大臣に任ぜられた。

 久光は政府の欧化政策に反対でたびたび建言したが容れられないので8年ついに官を辞して帰国し、以後政治の舞台から全く遠ざかって修史の業に従い、「通俗国史」(86冊)を編纂させ、また「薩摩国事鞅掌史料」等を集録させた。10年の西南戦争には中立を守り、休戦を建議したが容れられなかった。のち公爵を授けられるに当り国葬を賜った。
明治20(1887)年12月6日没。71歳

アクセス 照国町19 照国神社横の探勝園内
島津忠義銅像
 天保11(1840)年4月21生まれ。はじめ忠徳。安政6年襲封の際茂久と称し、明治元年王政復古に至り忠義と改めた。薩摩藩主島津斉彬の後嗣として19歳で藩主となったので、はじめは祖父斉興が藩政を補佐し、翌安政6年斉興の没後は重冨領主である父久光の補導を願い、久光は宗家に復帰し、鹿児島城二之丸に移り茂久を補導した。同年水戸・薩摩両藩有志の間に義挙の計画が進み、大久保利通ら同志40余名が脱藩して参加せんとするを聞き、若輩の彼らを「誠忠士」と認め、茂久自筆の手書を授け、挙藩一致国難に当らんことを期した。これより先代斉彬の遺志を継いで藩政改革に着手し、軍備の充実を行った。文久2年久光兵を率いて上洛し、ついで勅使を奉じて江戸に至り幕政改革に成功したが、帰途生麦事件が起り、その結果翌文久3年薩英戦争となったが、挙藩よく英国艦隊を撃破し、攘夷の実をあげた。これより開成所を設けて海陸軍事を攻究させて事変に備えたが、元治元年禁門の変により征長の役となるや兵を筑前に出した。慶応元年留学生を英国に派遣し、また英国より紡績機械を購入して鹿児島の磯に据え付けたが、これが我が国における紡績工場のはじまりである。同3年討幕の密勅が降るや茂久大兵を率いて京都に至り、小御所会議に参加し、王政復古の大号令渙発に努力した。
 明治元年鳥羽伏見の戦いにおいて幕軍を粉砕し、ついで関東・北越・奥羽の戦いには常に政府軍の主力として活動した。明治2年正月長・土・肥藩主と共に版籍奉還を奏請し、2月藩政改革を実行した。6月戊辰の軍功により賞典禄10万石を賜り、鹿児島藩知事に任ぜられ、4年廃藩置県に至った。10年の西南戦争には父久光と共に中立を守り、休戦を建議したが容れられなかった。のち公爵。ついで貴族院議員に列した。明治30年12月26日没するや特に国葬を賜った。58歳。
アクセス 照国町19 照国神社横の探勝園内
西郷隆盛銅像
          
天を相手に人生を全うした誠心の英雄

 西郷隆盛は幕末維新の指導者で、明治天皇の信頼が厚く、日本初の近衛このえ都督陸軍大将になった。
 文政10(1827)年下加治屋町郷中に生まれた西郷は、幼名は小吉、通称を吉之助といい南洲と号した。青年時代に二才頭として農政に関する意見書を提出。藩主島津斉彬の目にとまって側近に抜擢され、国事への関心を高めた。ところが、その斉彬が急死。勤皇僧月照と錦江湾に投身、一人生き残って大島に流された。その後、大久保利通らの助けで幕府を倒す運動に復帰。
 藩論を指導し、薩長連合を結んで、王政復古の大号令を決行。東征大総督府参謀として江戸無血開城を実現した。新政府が樹立した後は、参議として廃藩置県を断行。岩倉具視、木戸孝允、大久保利通らが外遊中の政府を預かった。
 明治6(1873)年、遣韓使節をめぐる政争に敗れて東京から鹿児島に帰った後は、私学校を開き後進の指導にあたったが、彼らの血気に押され、ついに西南戦争へと突入。明治10(1877)年、西郷は城山で自刃した。
 この銅像は、郷土出身の彫刻家 安藤照が習志野大演習で陸軍大将の制服を身につけた西郷の姿を思い描き制作したもの。
アクセス 城山町4 市立美術館前 撮影場所は山下町4の県文化センター前広場
小松帯刀銅像
 薩摩藩喜入領主肝付氏の3男として天保6(1835)年10月14日に生れ、のち吉利領主小松清猷の養子となり、近習番・詰衆・当番頭・側役・演武館掛・造士館掛・大番頭などを経て、文久2年5月島津久光が国事周旋を決意して藩の要路を更迭した際に側詰で側役勤にあげられ、ついで大久保利通・伊地知貞馨らといわゆる誠忠組内閣をつくりあげた。翌2年久光に従って上京し、公武の間を周旋し家老にあげられた。以後京都にとどまることが多く、元冶元年の禁門の変の処理に当り。また慶応2年正月、西郷・大久保・坂本竜馬らと薩長同盟の結成に参画した。長州処分・兵庫開港問題等のついても京都にあって奔走した。翌3年10月将軍徳川慶喜の大政奉還に当り、薩摩藩の代表として慶喜の諮問に与った。ついで西郷・大久保らと帰藩し,久光・忠義父子に王政復古の時期が来たることを述べ、藩主自ら率先上京することを説いた。
 明治元年正月参与兼外国事務掛から総裁局顧問を兼ね、ついで外国事務局判事を兼ねて外交関係を掌り、5月大阪府在勤を命ぜられ、外国官副知事を兼ね玄蕃頭に任じ、2年9月賞典禄1000石を与えられた。
 明治元年末から翌2年の初めにかけては大久保らと版籍奉還を画策、大久保・吉井友実輔・伊地知貞馨らと帰藩して藩政改革案を樹立した。明治3(1870)年7月20、36歳の若さで大阪で病没。のち明治29年遺功により孫帯刀に伯爵を賜った。
アクセス 山下町4の県文化センター前広場
五代友厚銅像
士魂商才

 幕末の激動期、最も早くから世界の進歩に目を向けていた一人。天保6(1835)年儒学者の次男として長田町の城ヶ谷で生まれた五代は、才助といった少年時代から、世界地図の模写や地球儀の制作で、海外への関心を高めた。安政4(1857)年長崎に留学。文久2(1862)年には藩命で幕府の千歳丸に同乗。上海に渡りドイツ汽船を購入して船長になった。薩英戦争では捕虜となり、一時裏切り者の嫌疑がかかり潜伏したが、帰藩が許されると、開国による富国強兵策を進言。慶応元(1865)年藩の留学生を率いてイギリスに渡り、蒸気船や紡績機械の購入に奔走した。帰国後は御小納戸奉行になり海軍に従事、長崎に日本初のドックを建設した。明治維新の活躍で、新政府では参与に任命されたが、後に官を辞して実業界に転身。明治11(1878)年株式取引所と商法会議所を設立し、自ら会頭に就任して、精力的に商都大阪の発展に尽くした。
 18年、病気のため49歳の生涯を閉じた。大阪の阿倍野墓地に埋葬されている。

アクセス 泉町5 泉公園の国道58号線沿い
月照上人遺跡
 ここは、京都清水寺の僧月照が宿泊した旅館「俵屋」のあった所です。月照が幕府の追求を逃れ、一足先に帰鹿していた西郷を頼って鹿児島に着いたのは安政5(1858)年11月8日でしたが、密告され藩庁により俵屋へ移され同月16日未明、西郷と相抱いて錦江湾に身を投じるまで、ここで過ごした。
アクセス 金生町6 鹿児島銀行
鶴丸城跡
 鶴が翼をひろげた形をしていることから鹿児島城は別名鶴丸城と呼ばれている。
 慶長6(1601)年、島津家18代家久が、関ヶ原合戦の後、上山城(城山)の補修と麓の居館づくりを思い立ち、父義弘のここは海に近すぎて危ないという反対を押し切って着工。家久はこの地を政治・経済の中心地として城下町の建設を始めた。まず居館を築き、その周辺に家臣の屋敷を移し、慶長11年、城の前の橋が完成した。
 城といっても本丸、二の丸、下屋敷が並び、天守閣や層楼のない屋形づくりだった。これは、「城をもって守りと成さず、人をもって城と成す」という薩摩藩流の思想によるもので、藩内の各所には兵農一致の郷士団が守る外城(とじょう)がめぐらされていた。
 城下は鶴丸城を中心に武家屋敷、その外側に上町6町、下町12町、そして西田町4町が設けられ、5000人余りの町人が集められた。圧倒的に武士の多い城下町だった。
 維新後は、熊本鎮台の分営として使われ、明治6(1873)年炎上。残されたのは城壁と擬宝珠つきの石橋だけとなった。
アクセス 城山町7
西南役弾痕跡
          
 明治元年(1868年)の明治維新の後、廃藩置県が行われ、この城の一角に熊本鎮西鎮台第2分営が設置され、歩兵1大隊が駐屯した時期、明治6年(1873年)に再び火災で焼失した。
 征韓論に破れて下野した西郷隆盛は、この焼け跡に「私学校」を設立した。
 現在は西南戦争の弾痕が目立つ石垣と内堀が残る。
アクセス 城山町8 九州循環器病センターの南側塀(写真上の左)と東側塀(写真下の石碑と写真上の右の塀)
私学校跡
          
 遣韓使節をめぐる政争に敗れたことで、辞表を出して帰郷した西郷隆盛は、一介の農夫として静かに暮らそうとした。ところが西郷を慕って続々と帰郷した若者たちはこれを許さず西郷は求められるままに、私学校を設立した。
 明治7(1874)年6月、鶴丸城の厩跡に篠原国幹が監督する銃隊学校と村田新八が監督する砲隊学校、これを本校として城下に12、県下に136もの分校が作られた。また幼年学校として西郷以下の賞典禄(戊辰戦争の賜金)を運営費にあてた賞典学校も作られた。
 私学校には、はじめ教師としてオランダ人やイギリス人を招き、生徒をヨーロッパに留学させる計画もあった。私学校の費用はすべて県費でまかなわれた。私学校は年々強大化し、反政府の気運を高まらせ、ついに過激派生徒が暴走。政府火薬庫の襲撃によって西南戦争を引き起こし、私学校はわずか4年でその歴史を閉じた。
 石垣には激戦のあとを物語る銃弾の跡がある。
アクセス 城山町8 九州循環器病センター入口右横に写真左の石碑 東側塀に写真右の石碑がある
薩摩義士碑
 1753年、徳川幕府は薩摩藩に木曽川・揖斐川・長良川(岐阜県)の改修工事を命じた。
 この宝暦治水は非常な難工事であり、約1,000人を動員し工費40万両を費やした末、1年3ヶ月かけてやっと完成した。
 その間、幕吏や地域住民との対立、悪疫の流行などで80名余命の犠牲者をだした。
 その供養墓塔として大正9(1920)年に建立された。藩の出費の責任をとって自刀した治水総奉行・家老平田靱負の碑を頂上に、将棋の駒を並べたような碑。
 完成した堤防はどんな洪水にもびくともしないので、現地の人々に深く感謝され、薩摩藩士を祭る治水神社が建てられている。
アクセス 城山町7 鶴丸城跡北御門の北西側
西郷隆盛終焉之地
波瀾の道、ここに尽きる

 ズドン、ズドン!2発の銃弾が西郷隆盛の腰を大腿部を撃ち抜いた。城山洞窟を出てわずか300m、650歩でついに途は閉ざされた。
 「晋どん、もうここらでよか」東を向き、皇居を伏し拝む西郷に、別府晋介の介錯の太刀が振り下ろされた。−明治10(1877)年9月24日。
 西郷を敬愛する私学校生徒を中心に強大な反政府勢力となった薩軍が、2月15日に50年ぶりの豪雪をついて熊本に軍を進めて以来、7ヶ月もつづいた「西南の役」が終った。
 熊本城の攻防、田原坂の激戦に敗れ、人吉から宮崎、延岡に追われた薩軍はついに解散。
 西郷以下の幹部は宮崎県北の可愛岳を突破し九州の中央山脈を縦走する難行軍の末、故郷鹿児島を死に場所に選んだ。
 岩崎谷に銃声がやみ、西郷の死体が発見された時、政府軍の総司令官 山県有朋中将は「翁はまことの天下の豪傑だった。残念なのは、翁をここまで追い込んだ時の流れだ」と語り、いつまでも黙祷したらしい。
アクセス 城山町13 城山に向かう途中、岩崎谷橋(陸橋)を渡り、左へ行くと城山の交差点を右折。案内板多数有り
西郷南洲洞窟
          
西南戦争最後の司令部

 明治10(1877)年9月24日、午前4時政府軍の城山総攻撃が始まった。城山に立てこもる薩軍兵士は、わずか300余。これを囲む政府軍は、何重も柵をめぐらし、その数4万。死を決した西郷は、夜明けを待って、5日間すごしたこの洞窟を出た。桐野利秋、別府晋介、村田新八、池上四郎といった私学校の幹部たちも。この日の西郷のいでたちは妻のイトが縫った縞の単衣に白い兵児帯。ゆっくりと岩崎谷を下る。その時流弾が西郷の腰に命中。別府の介錯で49歳の生涯を閉じた。
 西南戦争というのは、不平士族の反乱のあいつぐ中、台風の目というべき西郷を慕う私学校の生徒たちが、政府の挑発によって引き起こした暴動で始まった。首謀者の引き渡しか全面戦争か、その結論を出したのは「おはんらにやった命」という西郷の一言。

 2月15日、ついに挙兵。熊本で政府軍と激しい攻防をくりかえすも、近代兵器の前に敗退。7ヶ月にわたる大乱の最後を、西郷は故山城山で迎えた。

アクセス 城山町19 城山に向かう途中にある。すぐわかる
城山
ドン広場

「ドンが鳴った、ヒィ(昼)がなった。メス(飯)食ぶろ」と大正時代を鹿児島で生きた人は囃したそうな。明治30年以来、正午になると市役所の職員が空砲をならした。

ここから見る桜島は雄大です。

アクセス 城山町
西南役薩軍本営跡
城山へ布陣した薩軍の本営が置かれたところ。
アクセス 城山駐車場の北側にドン広場がある。さらに北に進むと林の中にぽつんとある。
五代友厚(1835-1885)生誕地
 天保6年ここ城ヶ谷に生まれ、早くから世界に目を向け慶応元(1865)年19名の留学生を率いてイギリス・ヨーロッパに渡り、翌年、磯の紡績機械や蒸気船等を購入して帰国。明治維新では、西郷、大久保らと共に活躍し、新政府の参与職等を務めた。

 明治11(1878)年には、株式取引所の創設や大阪商法会議所を設立し自ら会頭になるなど、大阪の商工業の発展に大きく寄与した。

アクセス 長田町32  西郷隆盛終焉の地から城山の反対方向に進むと次の交差点を左折 南風病院を越え突きあたりを右折して突きあたりを左折してしばらく走ると右手に見える。
座禅石
 西郷隆盛や大久保利通の青春時代をじっと見守った人物がいた。草牟田誓光寺の住職円了寺無参和尚といい、城下南林寺や島津家菩提寺福昌寺の住職を勤めた。当時、薩摩藩は次の藩主をめぐって斉彬を押す一派と久光派が対立。ついに、久光の実母であるお由羅の暗殺計画へと発展した。

 首謀者の一人赤山靭負(ゆきえ・1850年切腹)は、可愛がっていた西郷へ血染めの肌着を残して切腹。大久保の父は喜界島へ流罪となった。

 下級役人の仕事を黙々とこなし、仲間と「近思録(きんしろく・朱子学の書物)」を読み、誓光寺で座禅を組んでいた二人に最初の試練が訪れた。揺れ動く藩政の中で、座禅によって自分を見つめ直すことは、大きな時代の流れを見極める助けとなった。

 無参和尚の教えを受けた若き志士たちは有志組を結成。後に精忠組と呼ばれ、薩摩藩の中核として明治維新を成し遂げた。

 その熱い志を育んだこの石は、いわば明治維新の礎石といえるかも。

アクセス 草牟田2国道3号線の護国神社入口を右折して坂の途中、右側に誓光寺墓地がある。墓地の前にある。
草牟田陸軍火薬庫跡
 明治10(1877)年1月30日、鹿児島に貯蔵してあった武器・弾薬の類を新政府が大阪に移送しようとしたことに激昂した一部の私学校生徒達が、鹿児島城下草牟田(そうむた)にあった陸軍火薬庫を襲撃し、そこから多量の武器・弾薬などを奪う事件が起こった。

 この私学校生徒による「陸軍火薬庫襲撃事件」は鹿児島各地に飛び火し、この事件をきっかけとして西南戦争が勃発することになる。

アクセス 草牟田1 国道3号線草牟田の交差点を右折すると突きあたりに大きな墓園がある。墓園入り口に上記の石碑がある。
小松帯刀屋敷跡
 天保6(1835)年、喜入領主肝付家の三男として生まれ、20歳で吉利領主小松家の養子となり、小松帯刀と改名した。

 子供の頃から学問や武芸に優れ、27歳で家老となり、西郷隆盛や大久保利通などを重要な役目につけました。寺田屋事件、生麦事件、薩英戦争を乗り切り、薩長同盟を結ぶなど明治維新に向けて活躍した。坂本龍馬もこの屋敷に宿泊したことがあるといわれている。

 維新後も外交官などの要職についたが、34歳で亡くなった。

 NHK大河ドラマ「篤姫」の主役級で描かれています。瑛太君ガンバレ!!

アクセス 原良町1817のはらら温泉付近 JAが目印。そこまで行くと案内板がある。
西郷武屋敷跡
          
命もいらず名もいらず官位も金もいらぬ人

 遣韓使節をめぐる政争に敗れた参議西郷隆盛は、決然と辞表を提出、鹿児島へ帰郷したのは明治6(1873)10月23日のこと。

 鹿児島に帰った西郷は武村の自邸にひきこもり、自らを「武村の吉」と称して農業を始めた。肥桶を担ぎ、鋤鍬をとり、時には犬13匹をひきつれて狩りや湯治に出かけた。

 多くの功臣が維新の目的を忘れ、贅沢に溺れる中にあって、西郷は少しもおごることなく、質素なつくりの屋敷に巨大な松の木だけが自慢だったといわれている。また屋敷内には、大島時代に知り合った書家・川口雪蓬(せっぽう)を同居させ近隣の若者に教育の機会を与えました。

 ところがそんな西郷を神のように慕う声は、のんびりした余生を許さず、西郷を慕って続々と帰郷する若者たちに担ぎ出される。求められるまま吉野開墾社や私学校を設立。西南戦争は西郷がこの武村に戻って4年後、夢をかけた私学校徒の暴走によって始まる。

アクセス 武2-28 西郷公園 武福祉館横
西郷野屋敷跡
          
 野屋敷は、西郷隆盛が青年時代、困窮した家計を助けるために、開墾して里芋や甘藷(サツマイモ)などを植えた農地がまわりにあり、西郷がよく一人で滞留していたところ。(屋敷というが、6畳、3畳、4畳、2畳(いろり部屋)の田の字形の農事小屋。)
 明治6年遣韓使節派遣がかなえられず、帰郷した西郷は、武屋敷に住んでいたが、面会人を避けるため、暫し利用していた。明治10年西郷が「西南の役」に出陣したあと、妻(いと)が11人の家族とここで生活した。この屋敷跡にある山モモや大名竹は西郷が植えたともいわれている。
アクセス 五ヶ別府町3591番3 鹿児島実業高校の前に案内板(写真右)がある。そこから山道を歩くとある。
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