錦江湾沿

月照上人追悼碑

月照上人入水の碑

 幕末激動期の京都で、西郷隆盛は清水寺の僧月照と出会った。温厚な人柄と内に秘めた熱い志にひきつけられた。時代は保守派の井伊直弼が大老職につき開明派の弾圧が始まろうとしていた。そんな時に開明派島津斉彬が急死。絶望し殉死しようとする西郷を月照は心を尽くして諭し、思いとどまらせた。

 安政5(1858)年安政の大獄によって、月照は幕府から追われる身となった。西郷は月照を守るため薩摩に迎えようとしたが、斉彬亡き後の藩は幕府に恐れ、日向国に追放しようとした。薩摩で日向国に送るといえば「永送り」といって国境で斬殺することを意味する。日向国に向かう船上で西郷は月照とともに海に身を投じた。そして、西郷は生き残り、月照は46歳の生涯を閉じた。

 「大君のためには何か惜しむらむ 薩摩の瀬戸に身は沈むとも」

アクセス 吉野町10004 国道10号線三船の交差点付近 日豊本線を越え山側にある。目印は三船病院。
月照上人遷化之碑・西郷隆盛蘇生の家
          
  西郷と月照らは藩が用意した船に乗り鹿児島湾に乗り出した。御船沖まできたとき西郷は月照に無念の死を遂げた島津歳久の話をして死への無言の了解を得て、月照を脇に抱いて海に身を投じた。まもなく二人は発見され坂下長右衛門家で介抱され、西郷は幸いにも蘇生したが月照は帰らぬ人となった。月照の墓は南洲寺にある。西郷は菊池源吾と改名させられ、奄美大島へ潜居を命じられ3年間龍郷村で生活することになった。
アクセス 月照上人追悼碑から南下して花倉付近 国道10号線がJR日豊線を越えたところで、左手の線路脇に小さな藁葺きの家が見える。
仙巌園・尚古集成館
          
 仙巌園は、万治元(1658)年19代島津光久が別邸として築いたもので、その景観が中国(江西省)竜虎山山麓の仙巌に似ているところから名付けられた。
 また寛文12(1672)年、邸内に一亭を構えたところ、落成の日に鶴が舞い降りたので「喜鶴亭」とも呼ばれるようになった。 照葉樹林に覆われた磯山を背に、錦江湾や桜島を庭の景観に取り入れた借景の雄大さは、日本一であるといわれる。
 また、自然の美しさを最大限に生かした日本庭園を基本としながらも、園内には、琉球国王から贈られた「望獄楼」をはじめ、「江南竹林」「曲水庭」「千尋巌」など、中国・琉球文化の影響が至る所に見られることも特色の一つ。特に、曲水の庭は、作庭当時の姿をほぼそのまま今日に伝え、また我が国最大級のもの。
薩摩藩百五十斤鉄製砲

 百五十斤鉄製砲は反射炉で鋳造されたと伝える最も大きな大砲です。巨大な砲身を支える砲架は木製で、最前部を軸にして回転でき、大砲の向きを変える「砲架下部」と、発射時の衝撃を和らげるために砲架下部の上を滑る構造の「砲架上部」で構成されている。反射炉や鉄製砲は、幕末薩摩を舞台に島津斉彬らが挑戦した、近代化への情熱を象徴している。

          
反射炉の建造と集成館の設置

 アヘン戦争で中国がイギリスに敗れたという情報は、島津斉彬に大きな衝撃を与えた。
 反射炉は鉄製の大砲を鋳造するために築かれたもので、嘉永5年に着工し、安政3年ようやく鉄製砲の鋳造に成功した。
 また反射炉を中心に溶鉱炉やガラス工場など様々な工場が整備され、これらの工場群は「集成館」と命名された。
 生麦事件に端を発した薩英戦争では、イギリス艦隊7隻を相手に、ここで造られた大砲が大活躍したが、その後解体され、現在は基礎部分だけがのこされている。
仙巌園入口から尚古集成館・駐車場にかけての一帯は、幕末、島津斉彬が築いた工場群「集成館」の跡地で、国の史跡文化財に指定されてる。 反射炉跡や機械工場(現尚古集成館本館・重要文化財)、工場の動力用水路跡が現存し、さらに地中には多くの遺構・遺物が眠っている。  斉彬は、植民地化政策を進める西欧列強のアジア進出に強い危機感を抱いていた。 日本が植民地にされないためには、日本を西欧諸国のような強く豊かな国に生まれ変わらせなければならないと考え、嘉永4(1851)年薩摩藩主に就任すると、「集成館事業」という富国強兵・殖産興業政策を推進した。
 「集成館」はその中核となった工場群の総称で、鉄製砲を鋳造する反射炉、反射炉に鉄を供給する溶鉱炉、砲身を穿つ鑽開台、蒸気機関の研究所、ガラス工場などがあり、最盛期には1200名もの人が働いていた。
 安政5(1858)年斉彬が急死すると、集成館は大幅に縮小され、文久3(1863)年の薩英戦争でイギリス艦隊の攻撃を受け焼失した。 しかし、久光と忠義の手で集成館は復興され、薩摩藩は日本最高水準の技術力・工業力を持った。 そして、明治維新の際はその威力が発揮。
 明治4(1871)年、集成館は官営となった。 明治10年、私学校徒がここを襲撃して西南戦争が勃発、政府軍がすぐに奪還し、再奪還を図る西郷軍と攻防戦を繰り広げたため、多くの工場が焼失し荒廃した。 戦後、民間に払い下げられたが振るわず、大正4(1915)年廃止。
アクセス これはわかるでしょう
照国公製艦記念碑
日本最初の軍監は鹿児島で誕生した

 南北100m、幅20m、深さ3m掘り下げて東側から海水を入れるという構造をもった造船所がこの場所にあった。
 島津斉彬は、同じ島国のイギリスにならい、艦船を備え、海軍をつくり、薩摩を日本一強い藩にしようと考えていた。
 外国船が毎年のように琉球に通称を要求したためであった。
 嘉永4(1851)に建設し、安政元(1854)に3本マストの洋式帆船「伊呂波丸」が完成した。
 桜島瀬戸村に新設された造船所では、大砲船として改造された「昇平丸」が進水した。
 いずれも日本最初の快挙で、昇平丸はマストに日の丸を翻し、江戸へ回航、将軍家定を始め諸侯、幕閣を驚かせた。幕府の求めに応じ献上された.。

アクセス 国道10号線 仙巌園前を磯海水浴場方面(国道との分岐点を鹿児島市内に向かって左の道)の道を進むと踏切手前にある。
別府晋助(1874-1877)生誕地
 弘化4(1847)年、鹿児島城下吉野村実方で別府十郎の次男として生れる。中村半次郎の従兄弟。明治元年の戊辰戦争に薩藩隊に属して分隊長となり、奥羽に転戦。幕府崩壊後、賞典禄8石を賜わる。2年鹿児島常備隊小隊長となった。4年上京して近衛陸軍大尉となり、ついで少佐に進む。5年征韓論が起ると西郷隆盛の密命を受けて朝鮮に行き、朝鮮半島の軍事情勢を視察して帰朝復命した。6年征韓論決裂し職を辞して西郷に従って帰郷、加治木で他四カ郷の区長となり、私学校創立のために力を尽してその幹部となった。西南戦争には加治木・国分・帖佐・山田・重富・溝辺各郷の兵を募り、二個大隊を組織してその連合大隊長となり、熊本城を包囲するが、谷干城の抵抗に遭う。

 4月辺見十郎太らと鹿児島に帰り、壮丁を募って八代の政府軍を攻撃し、重傷を負うて人吉に退いた。のち振武・行進諸隊を指揮し、薩隅日の間に転戦、8月17日西郷と共に可愛獄の重囲を突破して9月1日鹿児島に入り、9月24日に、政府軍の総攻撃を受け、西郷を守って岩崎谷に向かう途中、大腿部に重傷を負い、そして西郷も敵弾に当り、西郷に介錯を求められると、最後の力を振り絞り刀を振り下ろした。その後、自らも西郷の後を追い、岩崎谷で自刃した。31歳。

アクセス 吉野町242付近 鹿児島中心部から新実万橋を越えて坂道を上ると右手に看板あり
桐野利秋(1838-1877)生誕地
 大西郷を神のように敬い、父のように慕い、運命を共にした。天保9年12月2日、貧しい下級武士の家に生まれた。立木打ちで庭木をすべて枯らすほど武芸の練習に励み、幕末動乱の京都では、勤王の志士として活躍。
 薩摩藩邸に兵学師範として招かれていた赤松小三郎をスパイとして暗殺するなど「人斬り半次郎」の名で恐れられた。会津鶴ヶ城の受け取りという大役を見事はたしてからは西郷の右腕として認められるに至り、ぼっけもん(大胆者)桐野の名は戊辰戦争でとどろいた。
 遣韓使節をめぐる政争では西郷に従い陸軍少将の地位を投げうって帰郷、西南戦争の実質的な指揮官として明治10(1877)年岩崎谷で西郷とともに38歳の生涯を終えた。西南戦争は一名「桐野のいくさ」と呼ばれている。
 なお、岩崎谷で西郷を介錯した別府晋助は、桐野利秋の従弟にあたる。
アクセス 吉野町390付近 別府晋助生誕地からすぐ
島津家墓地(斉彬・久光)
          
             島津斉彬墓                              島津久光墓
 福昌寺はかつて鹿児島市に存在した曹洞宗の大寺。 薩摩藩主島津氏の菩提寺であったが明治初年の廃仏毀釈により破壊された。山号は「玉竜山」であった。 曹洞宗大本山總持寺の御直末である。

 島津家歴代藩主の墓がある。

アクセス 池之上町48 鹿児島玉龍高校北側
森有礼(1847-1889)生誕地
 弘化4年(1847)8月生まれ。12歳の時、藩校造士館に入り、ついで上野景範に英学を学ぶ。元治元年新設の開成所に入り、翌慶応元年藩命によってイギリスに留学、翌年夏ロシアに赴く。同3年8月アメリカに渡りハリス教団に入る。
 翌年帰国して直ちに新政府の徴士・外国官権判事・公議所議長心得などとなる。廃刀論で一度免官となったが、明治3年小弁務使となってアメリカに駐在し、6年帰朝、外務大丞・同少輔・清国公使・外務大輔などになった。また明六社を結成し,東京学士会院会員となり、啓蒙運動に活躍、結婚改良のため契約結婚を唱え、自らこれを実行した。12年イギリス公使として駐英、17年帰朝、参事院議官・文部省御用掛兼勤となった。
 ついで18年12月伊藤博文内閣の初代文部大臣となり、翌年学校制度全般の改正を行い、帝国大学令・師範学校令・中学校令・小学校令等を公布した。帝国大学令の第1条には、とくに「国家ニ枢要ナル」の条項を加えた。
 これはのちの教育勅語とともに日本教育の国家主義化を規定したもので、明治初年の自由主義的教育制度は影をひそめた。とくに師範学校においては全校寄宿舎制をとって全生徒全生徒を収容し、兵式体操を採用した。また私財を投じて商法講習所(一橋大学の前身)を設立した。彼は非常に開明的な性格を持っていたが、同時にまた国家主義的であった。その一面が誤解されて22年2月憲法発布式典の当日、国粋主義者西野文太郎によって刺され、翌日没した。43歳。
アクセス 春日町14
祇園之洲薩英戦争砲台跡
祇園之洲 薩軍砲台跡

 このあたり一帯は昔、遠干潟で祇園浜と呼ばれていたが、島津家27代斉興のもとで、藩政改革を断行した調所広郷が、兵士の屯集所として埋め立てた。
 その後、斉彬がここに砲台を設置し、薩英戦争で初めて実戦に供された。正午に始まった砲撃戦は、3時間を経過し双方に相当の被害が出た。最後尾で祇園之洲砲台を攻撃していたレースホース号が、目の前の浅瀬に乗り上げたのはその時。ところがすでに砲台は、イギリスの誇るアームストロング砲で打ち砕かれ、藩士たちは指をくわえて敵艦が救出されるのを見送った。
 イギリス側の死傷者63名、薩摩側は死傷者13名でしたが、城下の被害はすさまじく西洋との力の差を知った薩摩藩は、この戦いを契機に開国へと動き始めた。

アクセス 祇園之洲町 祇園之洲公園内
西南の役官軍戦没者慰霊塔
          
西南の役官軍戦没者慰霊塔                     宣刀殉難報国諸士之墓  
両軍戦死者13240余人−国内戦の悲惨さを物語る官軍将兵の寄せ墓

 近代国家の産みの苦しみ−と形容される西南戦争は、薩摩郡が維新の英雄、西郷隆盛を頭に戴き、7ヶ月間、政府軍と攻防を繰り返した悲惨な戦いです。この間の戦死者は、官軍側6840余人、薩軍側6400余人、あわせて13240余人にのぼり、かぞえきれないほどの人々が親兄弟を失い、家を焼かれた。
 西南戦争最後の決戦場となった鹿児島でも、多くの将兵が倒れ。そのうち官軍将兵1270余人は全員がこの祇園之州に葬られた。もとは官修墓地として墓石が整然と並んでいたが、荒廃が激しく、昭和30(1955)年、地下納骨堂に合葬され、西南戦争100年に際して慰霊塔が建てられた。
 塔は「悲」「苦」「悶」を表す3像の上に「和」像が据えられている。これは、生死のの苦しみを離れ、安らぎを得ることを意味し、「和」像の光背は新時代に芽吹く新樹を象徴している。
 納骨堂の前方には西南戦争に参加した青森県人が、戦乱の翌年に建てた碑が残されている。

アクセス 祇園之洲町 祇園之洲公園内
ザビエル上陸記念碑
神に捧げた生涯

 ローマ法王に絶対の忠誠を誓い、東アジアへの伝道をめざしたイエズス会士、フランシスコ・ザビエルが、日本で初めてキリスト教を伝えたのは、1549(天文18)年のこと。
 リスボンを出航したインド・マラッカ・モルッカ諸島を渡り、飢餓と疫病に悩んだ末、ようやくトルレス神父等6名とともに鹿児島に上陸。案内したのはマラッカで一行に加わったパウロ・ヤジロー(鹿児島出身)です。
 ザビエル一行は、当時の大守島津貴久の歓迎を受け、布教の許可を得た。
 「この国の人は礼儀を重んじ、一般に善良で悪い心は持っていない。何よりも名誉を重んずるが、一般に貧しい。しかし、それを恥とは思っていない。」という感想をマラッカに書き送ったザビエルですが、その後仏教徒の反対にあい、わずか10ヶ月で肥前平戸へ移った。
 子どもを非常に愛し、特に子ども教えを広めることに力を注いだ人でした。
 この記念碑は、ルイ・フランセン(ベルギー)の作で、昭和53年に設置された。

アクセス 祇園之洲町 祇園之洲公園近く 看板があるからすぐわかる
坂本龍馬・お竜新婚旅行の像
          
日本で最初の新婚旅行 −龍馬33年の生涯で最も平和な3ヶ月

 「王政復古の暁には、汽船を一隻造しつらへて日本の沿岸を廻ってみようか?」と龍馬はお龍の肩に手を置いて言った。
 鹿児島に向かう薩摩藩船三邦丸の1シーン。
 慶応2(1866)年1月21日、苦心の末薩長同盟を成立させた龍馬は、宿舎の寺田屋で幕吏の襲撃をうけて負傷、西郷隆盛の勧めに応じて薩摩への湯治旅行をした。
 西郷、小松帯刀、吉井友実、桂久武、それに龍馬の妻お龍も乗船して大阪を出帆。3月10日鹿児島に入港。
 仲睦まじい龍馬夫婦は、日当山から塩浸、栄之尾温泉を巡り、谷川で釣りをしたり、ピストルで鳥を撃ったり、ミヤマキリシマが一面に咲く高千穂に登り、天の逆鉾をひきぬいたり、まさしくハネムーン気分を満喫した。
 土佐の海援隊を作り、薩長を結びつけた明治維新最大の功労者の一人龍馬は、この平和な薩摩下りからわずか1年半後、京都近江屋で暗殺され、王政回復の暁を見ることなく33歳の生涯を閉じた。
アクセス 天保山町 太陽橋南口の交差点 天保山公園南
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