加治屋町付近

若き薩摩の群像

まずはじめに留学生を驚かせたのは、オランダ人夫婦の激しいキスシーンだった。

慶応元(1865)年、甑島大島出張と偽り、イギリス商人グラバーの手引きで、羽島(串木野市)を出航してから20日目、シンガポールでの出来事。それからはもう見るものすべてが驚きの連続。アイスクリーム、高層建築、汽車・・・。66日かけて彼らはやっとロンドンに着いた。

留学生の主な顔ぶれは、34歳の新納久修を団長に、引率者として町田久成、松木弘安、五代友厚。学生では後に初代東京開成学校(現東京大学)学長になった畠山義成、初代文相の森有礼、最年少の13歳磯永彦助(長沢鼎)はアメリカに定住し、ぶどう王といわれた。留学生を引率した新納や五代の現地での活躍はめざましく、パリ万国博への薩摩藩の参加を決め、当初の目的であった紡績機械の買い付けにも成功した。また松木(寺島宗則)は、イギリスとの外交折衝で、討幕運動への助力を得た。

アクセス 鹿児島中央駅前
西郷南洲翁宅地跡
西郷隆盛が上之園町に移ってきたのは安政2(1855)年29歳の時。2年前に祖父、父母を相次いで亡くし、下鍛冶町の屋敷を売り借金の返済にあてたといわれている。この屋敷では、弟の吉次郎や従道の結婚式が行われ、妹が嫁ぎ、西郷自身も慶応元(1865)年イト夫人と結ばれた。ここに居住していた時期は、西郷の人生も波瀾万丈の時代であった。藩主島津斉彬に才能を認められ、薩摩から日本へと活躍の舞台は広がったものの、その斉彬公が急死。近衛家から保護を依頼された月照をかくまうことが出来なくなり、共に入水自殺を図り遠島流刑を経験する。その後大久保利通らの助力によって志士として復活。抜群の働きで明治維新の英雄と呼ばれるまでになった。維新後は、参議、陸軍大将として新しい時代の基礎作りに大きな役割を果たした。宅地跡の碑は、昭和9(1934)年旧上之園町50番地に建てられたが、太平洋戦争中に失われたため復元した。
アクセス 上之園町2 井研公園のナポリ通り側の入口すぐ
樺山資紀(1837-1922)生誕地
天保8年(1837)11月12日〜大正11年(1922)2月8日

 文久3年樺山家を継ぐ。慶応3年2番遊撃隊に属し、京都守衛として上京し、明治元年戊辰戦争に従軍、ついで常野・東北地方に転戦した。4年陸軍少佐に任じ、征台の役に西郷従道に従い功績をあげ、10年の西南戦争には熊本鎮台参謀として司令官谷干城を助けて熊本城を死守した。11年陸軍大佐となり、13年大警視を兼ね、翌14年警視総監を兼ね陸軍少将に進んだが、16年海軍に転じ、海軍大輔・次官となる。23年第一次山県内閣、ついで松方内閣に海相となった。

 日清戦争が起ると現役に復し、海軍軍令部長として自ら戦地に赴き作戦を指導した。戦後初代台湾総督となり、その後第二次松方内閣の内相、第二次山県内閣の文相を歴任し、のち枢密顧問官となった。年86没。

アクセス 西田1−5 大久保利通銅像の西 甲突川を渡ってすぐ
大久保利通銅像
 大久保利通は明治草創期の指導的政治家。天保元(1830)年生まれ。幼名は正袈裟、通称は一蔵、号を甲東と称した。幕末期、薩摩藩下級武士のリーダーとして藩論を尊王にまとめる一方、最後の藩主島津忠義の父久光の信頼を得て、藩政改革にも手腕を振るった。

 薩英戦争後はイギリスとの講話をまとめ開国に目覚めるとともに、沖永良部から西郷隆盛を呼び戻し、歴史的な名コンビとして倒幕に奔走。薩長同盟の締結をみて、ついに明治維新が達成された。

 新政府樹立後は政界の中心人物として、版籍奉還、廃藩置県の実現につとめ、大蔵卿時代は地租改正の建議を行った。また、欧米諸国を視察し、帰国後は内務省を設立し事実上の首相ともいうべき内務卿に就任した。

 ところがこの頃から西郷隆盛と対立、西南戦争によって竹馬の友を失った。その大久保もまた、明治11(1878)年出勤途中に襲われ急死。ロンドンタイムスは「氏の死は日本全国の不幸である」と報じた。

アクセス 甲突川の高見橋の北すぐ
黒木為禎(1844-1923)生誕地
弘化元年(1844)3月16日〜大正12年(1923)2月4日

 慶応3年藩兵として上京、明治元年の戊辰戦争には半隊長として伏見・淀から下野・奥羽に転戦し、さらに翌2年箱館まで歴戦した。4年、親兵として上京、陸軍大尉に任じた。10年の西南戦争には別働隊第二旅団の連隊長、日清戦争には第六師団長、日露戦争には第一軍司令官として敵将クロバトキン軍の中堅に進出して黒木軍の名を中外に輝かせた。戦功で伯爵となり退役後枢密院顧問官となった。年80没。

アクセス 加治屋町2
伊地知正治(1828-1886)生誕地
文政12年(1828)6月1日〜明治19年(1886)5月23日

 目と脚が不自由であったが、生れつき豪邁かつ坦略であった。薩藩独特の合伝流の兵学を法亢宇佐衛門に学んで奥義を極め、西郷従道・三島通庸・高崎五六・淵辺高照らはその門人であった。はじめ藩校造士館の教官となり、万延元年軍賦役に任ぜられた。文久2年島津久光が上京するに当って軍師としての手腕を認められ軍奉行となった。ついで薩英戦争、禁門の変、鳥羽伏見の戦い等において軍役奉行として藩兵を指揮して戦功を立てた。明治元年2月東山道先鋒総督府参謀を命ぜられ、宇都宮・白河口に転戦し、ついで土佐藩参謀板垣退助と協力して会津若松城を落城させ、その功により金300両と永世禄100石を賜った。

 明治3年薩摩藩権大参事となった。4年上京の命を受け左院の中議官・大議官兼教部省御用掛、5年左院副議長、6年制度取調御用兼務となり、参議兼議長に任ぜられた。8年一等侍講・修史館副総裁を経て修史館総裁となる。12年宮内省御用掛、19年宮中顧問官に任ぜられ、西南戦争後鹿児島に帰り、渡辺千秋知事にすすめ、戦後県民の匡救策として殖産事業を奨励せしめた。年59歿。

アクセス 加治屋町3 大久保利通生い立ちの地からすぐ
大久保利通生い立ちの碑
          
近代国家建設に命を賭けた大久保の苦悩

 大久保内務卿が庁舎にはいると、雑談はやみ、あたりは水を打ったように静まりかえった・・・。
 
子煩悩な私生活とは裏腹に、政治家としての大久保利通は厳格さにも凄味があったといわれている。幕末激動期に西郷との絶妙のコンビで明治維新を成し遂げ、新政府樹立後は天才的な政治手腕で近代国家の建設に着手。親友西郷と真っ向から対立しても、その信念を貫き通した。

 大久保の父は下級役人ながら琉球館付役を務め学識が豊かだった。利通は高麗町で生まれ、まもなくこの下加治屋町に移り住んだ。3つ年上の西郷とは薩摩独特の郷中教育の中で兄弟以上の信頼を結んでいた。
 
15歳で記録所書役助で出仕。お由羅騒動では、父が遠島。利通も謹慎となりどん底の暮らしを体験する。その後、島津斉彬が藩主となり復活。斉彬亡き後も、藩の実権を握った久光に信頼され、精忠組のリーダーとして薩摩藩を倒幕の中心勢力に育て上げた。 この石碑は、西郷隆盛誕生地の石碑と全く同じ大きさで制作されている。

アクセス 加治屋町 維新ふるさと館横
維新ふるさと館
維新ふるさと館のたつ「加治屋町」。

ここから、西郷隆盛や大久保利通をはじめ、数多くの明治維新の英傑が飛び立った。だから、加治屋町は”明治維新のふるさと”。

維新ふるさと館では、近代日本を創った英傑たちの心をしのぶこの地で、音や光のあふれる空間・ジオラマや、等身大ロボットなど、ハイテク技術を用いた展示方法によって明治維新の熱い歴史を、わかりやすく、楽しく体感できる。

アクセス 鹿児島市加治屋町23番1号 TEL:099-239-7700
西郷隆盛・従道生誕地・西郷従道邸庭園跡庭石
          
身体も心も目玉も大きかった西郷さん

 「大きくたたけば大きく鳴る。小さくたたけば小さく鳴る」と坂本龍馬を驚かせた薩摩の「ウドメサア」(目の大きな人のこと)西郷隆盛の器量の大きさは、彼が生まれ育った下加治屋町の郷中教育によって培われたといわれている。

 文政10(1827)年西郷は下級武士の家の7人兄弟の長男として誕生。貧しい生活の中で藩校造士館に通い、次第に下加治屋町郷中の少年達のリーダーとして頭角を現す。
 西郷は13歳の時、右腕を負傷し武芸はあきらめたが、その分勉学に励み、二才頭(にせがしら)として郷中の仲間の人望を集めた。
 17歳で郡方書役助という地方役人となり、農村を回り、農政についての意見をまとめた。これが島津斉彬の目にとまり活躍していく。

旧西郷従道邸庭園
 明治7(1874)年、従道は、兄隆盛の隠棲所を営む目的で、目黒の地所を購入した。
 西南戦争による隆盛の死によって、当初の目的は果たせなかったが、明治33(1900)年までは西郷家の別邸として、それ以後昭和16(1941)年までは、本邸として使用された。
 庭園は、大きな池と斜面の滝を中心とした広大なもので、明治期を代表する庭園として高い評価をうけた。
西郷従道邸庭園跡庭石
 この庭石は、東京都目黒区の西郷従道邸庭園跡地が公園として整備されることにともない、平成12年12月、目黒区から、西郷従道にゆかりのある鹿児島市に寄贈された。
 石は、伊豆石、伊予の石、紀州の青石の3種です。

西郷従道
 西郷隆盛の弟として、天保14(1843)年に生まれ。戊辰戦争に参加し、維新後は陸軍をつくることに力を尽くし、のち海軍に移り、海軍大臣、内務大臣をつとめた。明治35(1902)年で没。(60歳)

アクセス 加治屋町5維新ふるさと館からすぐ
吉井友実(1828-1891)生誕地
 幼少から学を好み、俊才といわれ、西郷・大久保等と提携し国事に関与した。安政3(1856)年大阪藩邸の留守居となり諸国の志士と親交を持ちました。文久2年寺田屋事件のあと、島津久光のあと押しで幕政改革の勅命を届けに行く大原重徳に従い江戸城で談判を見守った。

 慶応2年薩長連合の推進につくし討幕をすすめ、明治維新後、司法・民部・工部・宮内の各省の要職を歴任。14年、日本鉄道会社社長、17年伯爵を賜り、21年には枢密顧問官となった。

アクセス 加治屋町5 みゆき通り沿い
大山巌生誕地
 西郷隆盛の従弟として、同じ加治屋町で成長した。剣術・槍術の免許皆伝。精忠組に加わり、寺田屋事件では謹慎を命じられ、西南戦争では西郷と対立する立場となり、政府軍の旅団や砲隊を率いた。明治31(1898)年、陸軍元帥、翌年参謀総長となり、日露戦争でも活躍するなど日本陸軍の基礎を築いた。大正10(1916)年逝去の際には国葬だった。
アクセス 加治屋町4 みゆき通り沿い
東郷平八郎生誕地
 西郷らと同じ加治屋町に生まれ、西郷の弟吉二郎に手習いを受けた。維新後には海軍の留学生としてイギリスに学び、その後海軍に一生を捧げた。日露戦争の時の連合艦隊司令長官。日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を全滅させ、「東洋のネルソン」として世界中に名を轟かせた。昭和9年逝去の際には国葬となり、あわせて約180万人もの市民が参詣におとずれた。
アクセス 加治屋町10 鹿児島中央高校 北側
村田新八(1836-1877)生誕地
幼年時代から西郷隆盛を兄として敬い仕えた。

明治4年岩倉使節団で外遊。明治7年帰国してみると。遣韓論に敗れた西郷らは帰郷していた。

大久保利通に引き留められたが、「西郷さんの意見も聞かねば」と振り切り帰郷。その後私学校で子弟の教育にあたった。

西南戦争では、薩軍の二番大隊長として奮戦したが、城山陥落の日、西郷隆盛の死を見届けてから自刃した。

アクセス 加治屋町10 鹿児島中央高校南西角 みゆき通り沿い
篠原国幹(1836-1877)生誕地
若くして伊地知正治、重野安鐸等と共に造士館で学び、和漢学を修めた。戊辰の役では薩摩三番小隊長として活躍。明治5年陸軍少将となったが、翌年の遣韓論に破れた西郷に従い官職を辞し、桐野利秋等と帰鹿した。

私学校設立と同時にその監督となり、子弟の養成に励んだが、西南の役では、薩軍の一番大隊長として、田原坂の激戦を指揮したが、敵弾に倒れた。40歳。

アクセス 加治屋町10 鹿児島中央高校南東角あたり
山本権兵衛(1852-1933)・山本英輔(1876-1962)生誕地
山本権兵衛
16歳の時、18歳と偽って戊辰戦争に参加した後、海軍兵学寮に入った。明治7(1874)年西郷隆盛を追って鹿児島に帰ってきたが、西郷の勧めで海軍兵学校に進み、卒業後は軍艦「天城」などの艦長を務めた。
31(1898)年、第二次山県内閣の海軍大臣となり、7年間海軍の最高責任者の地位にありました。この間、日露戦争の際には、東郷平八郎を連合艦隊司令長官に任命した。
大正2(1913)、総理大臣となり行政の整理などを手がけましたが、シーメンス事件(汚職事件)が起こり辞任しました。
12(1923)年、関東大震災当時また総理大臣になり、東京の復権に努力したが、虎ノ門事件(摂政の宮狙撃事件)が起こり、その責任をとって辞任。
心が広く、小さいことにこだわらない、さっぱりとしたユーモアのある性格だったそうな。

山本英輔
陸軍大尉吉蔵(山本権兵衛の兄)の長男として生まれ、英輔が一歳の時、父吉蔵は西南の役で武岡にて戦死した。
明治26年、海軍兵学校に入学。37年、日露戦争の際は第二艦隊上村提督の参謀大尉として出征し、日本海海戦で活躍。42年海軍大学教官。大正12年同校校長。昭和4年連合艦隊司令長官となり6年海軍大将となった。

アクセス 加治屋町16 整形外科田平病院の塀の上に石碑が建っている。県道20号線沿い 今までたくさんの史蹟を調査しましたが、初めて「塀の上の石碑」に巡り会いました。
井上良馨(1845-1929)生誕地
          
鹿児島中央高校横                        高麗町にある石碑
 19歳で薩英戦争に参加し、沖小島砲台に配置されました。明治元年海軍に志願、軍艦「春日」に乗り組み、明治8年には「雲揚」艦長として江華島事件に遭遇し勝利を得た。
 西南の役では、官軍に属し「清輝」艦長として鹿児島湾に入港した。
 日清戦争、日露戦争では、佐世保横須賀、呉などの鎮守府司令長官を歴任し、戦後、軍事参議官になり、明治44年元帥の称号を賜った。
アクセス 写真左は加治屋町10の鹿児島中央高校南側 写真右は高麗橋2のナポリ通り沿い
大久保利通生誕地(高麗町)
探すのに苦労しました。地元の方に「高麗町にある大久保利通生誕地の石碑知りませんか?」と何人にも尋ねましたが、加治屋町以外は知らないという。ならば昔からある街道はどれですか?と尋ねても無理。ならば長年のカンをたよりに地図を見てみると、怪しい場所発見。

早速向かうと あった!! カンの鋭さに感動したのと、発見できたうれしさは・・・経験しないとわからないですよね。

その後、維新ふるさと館に行くと、看板にちゃんとありました。ああ、確認すべきだった・・・。

アクセス 高麗町2 甲突川とナポリ通りの間の道の駐車場角にある
関勇助(?−?)生誕地
 学問・武道の両方にすぐれた関勇助は、島津家第28代斉彬が最も信頼を寄せた人物。例えば、蝦夷地開拓計画のための調査立案や大政の権限を朝廷に返すための七箇条の意見書の添削など重要な仕事のほとんどは斉彬が勇助にさせた。

 また、勇助は当時の若者たちの指導・教育に大変熱心で、西郷隆盛や大久保利通など多くの優秀な人材を世に送り出した。それも、ひとえに勇助が日本の国の将来を考える思慮深い人物だったからと言えるでしょう。

大久保利通生誕地の高麗町付近を歩いていたら偶然発見しました。

アクセス 高麗町4付近 鹿児島学芸高校の東、甲突橋手前の南側
有村雄助(1833-1860)・次左衛門(1838-1860)生誕地
 安政時代、幕府の大老井伊直弼の弾圧で、多くの者が処刑される安政の大獄があった。それに対して、水戸藩の有志と結んで、井伊直弼襲撃計画に参加したのが、雄助と次左衛門の兄弟。

 万延元(1860)年3月3日の桜田門外の変で、井伊大老を一番先に切り込んだのが、次左衛門だった。また雄助は決行には加わらず。計画の成功を報告に京都に向かったが、途中捕らえられた。雄助は28歳、次左衛門は23歳で亡くなった。

ここも大久保利通生誕地の高麗町付近を歩いていたら偶然発見しました。石碑探しのカンは衰えませんね。

アクセス 高麗町9付近 鹿児島学芸高校西の南向き一方通行道路の西側
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