三  宮

網屋吉兵衛顕彰碑

 網屋吉兵衛は天明5年(1785)、二つ茶屋村城下町(現在の元町4丁目)生まれ。丁稚奉公をした後、呉服商を営み、72才になってこの付近に、長年の夢であった船蓼場(現在のドック=船底についた貝殻や船虫などを焼いて船の修理をする所)の建設に着手した。私財を投じ資金を調達して安政2年(1855)に竣工。その後、負債返済のためにドックの所有権は神戸村に移され、彼は支配人となった。このドックは海軍操練所のものとして活用された。勝海舟が操練所をこの地を選んだのはこの船蓼場があったから。

アクセス 中央区新港町7(川西倉庫前)
加納宗七銅像
 文政10年(1827)、紀州藩の御用商人宮本助七の次男。宗七は家業を手伝い、結婚後独立。藩内では伊達宗興に引き立てられる。慶応3年(1867)11月、上京し伊達宗興の弟である陸奥源二郎(宗光)を訪ねる。直後、坂本龍馬が暗殺される。宗七は龍馬暗殺の黒幕と噂された紀州藩 三浦休太郎の襲撃計画に加担し、12月7日天満屋事件にも加わった。事件後は神戸に移住し、材木商を営む。明治4年(1871)生田川の流路変更の改修工事を請け負い、旧生田川の川底を埋め立てる整備を行う。その実績により開発された地域は「加納町」と名づけられ、現在も残っている。
アクセス 中央区加納町6(東遊園地)
海軍営の碑(メリケン・パーク)
 元治元年(1864)10月8日、勝海舟は海軍操練所がある小野浜に記念碑を建立しようとしたが、目的は達せられず、海舟の寓居先であった生島家が保存した。大正4年(1915)に寄贈され、神戸市中央区諏訪山町1にある諏訪山公園金星台の地に建てられた。ここにある碑は、諏訪山にある海軍営之碑と同じ形に造られている。生島家で保存されていた碑が諏訪山へ移転する際、巨大な鞘石にはめこみ今の形になった。このため、原碑の側面に刻まれていた松平春嶽の歌は永久に見ることができなくなった。
アクセス 中央区波止場町1(みなと公園)
神戸海軍操練所跡
          
 万延元年〈1860年)1月、幕府は遣米修好使節団を公式に派遣した。その際、勝海舟は、咸臨丸〈300トン)の艦長として、万里の波浪とたたかいなが ら一行の護衛と海洋技術習得の大任を果したのである。これ、日本人による最初の太平洋横断であり、わが航海史上、特筆大書すべき壮挙であった。
 文久3年(1863年)4月攘夷の世論ようやく急を告げ、徳川家茂は摂海防 備のため阪神海岸を巡視した。当時海舟は軍艦奉行並の職務にあって、これに随 行し、神戸港が天然の良港であり国防の要港であることを力説した。かくてここ小野浜の地に海軍操練所の創設をみたのである。
 この神戸海軍操練所は兵学校、機関学校、海軍工廠を総合した観があり大規模な組織であった。勝海舟はここに天下の人材を集め日本海軍の礎を築き、海外発展の基地をつくろうとした.その高風を仰ぎ、来り学ぶ俊英二百の多きを 数え、坂本龍馬、陸奥宗光、伊東祐享など幾多有為の人材が輩出したのである。
 元治元年(1864年〉海舟は禁門の変に操練生の一部が反幕軍として参加したため、激徒養成の嫌疑を被って解職され、操練所もまた翌慶応元年(1865年)3月、ついに閉鎖されるの止むなきに至ったのである。 当時は、この「記念の錨」から東へ長くひろがり、南は京橋詰から税関本庁舎を望むあたりの、長方形の入堀約一万坪の一帯が海軍操練所であった。惜しくも現在では阪神高速道路の下に埋めたてられて当時の盛観をしのぶに由もない
 今はただ遠く諏訪山公園からこの地を見守る勝海舟直筆の碑文を仰ぐことのできるのがせめてもの救いである。
アクセス 中央区新港町16
神戸税関発祥地
 兵庫開港の勅許を得てから、外国人居留地、開港においての貨物の手続き、関税の徴税などの運上事務及び外交事務を処理する機関として運上所が設置された。慶応3年12月7日(1868年1月1日)運上所において開港式が開催された。明治5年(1872)5月には、運上所が大蔵省の所管となる。明治6年1月、神戸運上所は神戸税関と改称。
アクセス 中央区海岸通29(神戸地方合同庁舎前)
神戸海援隊レリーフ
流政之(ながれまさゆき)作

"Samurai Artist"の異名をもつ世界的に活躍する彫刻家。大正12年(1923)長崎県生まれ。立命館大学へ進学。海軍予備学生出身の零戦パイロットとして終戦を迎える。その後、世界各地を放浪、独学で彫刻を学び現在に至る。

アクセス 中央区波止場町2(メリケンパーク)
三宮神社(神戸事件発生の地)
 三宮神社は西国街道に面しており、かつては境内から湧き出る清水が、神戸に出入りする船の飲料水に使われていた。

 慶応4年(1868)1月、江戸幕府最後の将軍であった徳川慶喜は、鳥羽・伏見の戦いで新政府軍に敗れ、大阪を脱出した。1月1日、新政府によって西宮の警備を命ぜられた備前(岡山)藩の兵隊が神戸の三宮神社前を行進していたとき、外国の水兵が隊列を横切ったのがきっかけで、藩兵が発砲し、英・仏・米の守備兵がこれに応戦しました。外国側は、大阪湾内の諸藩の艦船6隻をすべて抑留し、神戸にあった居留地(当時は造成中)を軍事的に占領した。

 発足したばかりの新政府にとっては、諸外国を敵に回しかねない緊急事態だったが、備前藩士 瀧善三郎を事件の責任者として、外国士官立会いのもとに兵庫の永福寺で切腹することで落着した。

アクセス 中央区三宮町2-4(三宮神社)
明治維新開港当時関門跡

 幕府が外国人居留地を設置した慶応3年(1867)、密貿易を防ぐために置いた関門14箇所のうちのひとつで「西関門」と呼ばれたところ。
 関門は明治4年(1871)に廃止され、自由に通行できるようになった。

アクセス 中央区元町通6-2

明治天皇ご用邸跡
 明治19年(1886)宮内省は海岸沿いの土地、建物、桟橋一式を購入し、その後、この周辺の土地を買い足し、3970坪の広大な敷地を御用邸とした。同24年(1991)5月9日、ロシア帝国ニコライ皇太子は、軍艦7隻をひきつれ、アゾバ号で神戸を訪問。御用邸裏桟橋から上陸した皇太子は、生田神社、諏訪山公園、湊川神社などを訪れた後、特別列車で京都へ向かう。その2日後、滋賀県大津を人力車で通過中、警備の巡査にサーベルで切りつけられ負傷する「大津事件」が起こる。大国ロシアとの関係悪化を懸念した明治天皇は、すぐに京都に皇太子を見舞われ、その後、神戸の軍艦に帰る皇太子とともにここに来た。皇太子が急遽帰国することになり、天皇は御用邸でお別れ宴を開く意向だったが、皇太子は、逆に天皇をアゾバ号艦上での食事会に招待した。5月19日、天皇は護衛もつけず、ロシアの軍艦を訪問、皇太子の招宴に臨まれた。政府が心配していたロシアとの関係悪化は、天皇のこのような誠意ある態度で免れた。
アクセス 中央区東川崎町1丁目8
東郷井
 川崎重工業健保組合会館の前に東郷井という碑が建っている。後に元帥、海軍大将となる東郷平八郎寓居跡。
 明治18年(1885)7月、神戸の小野浜にて軍艦「大和」(初代)を建造中、当時海軍中佐だった東郷平八郎が監督官として神戸に派遣された。
 和洋折衷の神港倶楽部(第2次大戦で焼失)の和室を寓居先とした。約1年間滞在し、毎日ここから腰弁当で小野浜の造船所に通った。
 当時はこの碑のすぐ傍に井戸があり、東郷が朝夕使用したといわれている。
アクセス 中央区花隈町7-16
伊藤博文寓居跡
 慶応4年(1868)1月11日神戸事件が起り、同年1月15日(1868年2月5日)、徳川幕府に代わり明治新政府樹立後初めて外国との会見が、神戸税関の前進である「運上所」にて行われた。
 2月には兵庫裁判所と改称し、東久世は総督に就任。伊藤俊輔は外国事務局判事に任命された。5月17日には兵庫県庁と改称され、初代兵庫県知事に伊藤俊輔(博文)が27歳の若さで任命された。
 伊藤は、二ツ茶屋村の庄屋 橋本藤左衛門の別邸である橋本花壇を仮住居とした。
 橋本花壇の所在地は、旧住居表示では神戸市生田区長狭通6-78、現在は中央区花隈町3に該当する。
アクセス 中央区花隈町3
大倉山公園−伊藤博文銅像台座・坂本龍馬と神戸海軍操練所記念碑
 明治37年(1904)、湊川神社境内に伊藤博文像が建てられたものの、すぐに姿を消してしまい、その後は建てられないままであった。
 明治42年(1909)10月26日、伊藤がハルビン駅で暗殺されると、親交のあった神田兵右衛門等が主唱し、再度、神戸に伊藤博文の銅像を建てることが計画された。
 これを聞いた政商大倉喜八郎は、自分の神戸別荘地を寄付した。
 明治44年(1911)12月26日、銅像が完成され、別荘地が大倉山公園として開園する。
 この伊藤博文の銅像も、戦時中の金属供出のため現在は姿を消した。
 現在は銅像の台座跡だけが残っている。
神戸にある全国各地の県人会が、故郷の樹木を植えたり、石碑を建てたりしているなか、高知県のコーナーでは「坂本龍馬と神戸海軍操練所記念碑」が建てられている。
アクセス 中央区楠町7-4
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