神戸・元町

和田岬砲台
  
 文久3年(1863)2月28日、勝海舟日記に「砲台の議決す。その地所は和田ケ崎、湊川出洲、西宮、天保山沖等まず取りかかるべきとなり。」また、同年2月30日には「順動船にて兵庫に到る。同所和田ケ崎、湊川等、石造塔の地を定む」とある。その後、勝海舟の設計により本格的に砲台築造の工事にかかり、約1年半後の元治元年(1864)9月に竣工。工事中、徳川家茂、一橋慶喜、姉小路公知が視察に来ている。実際には砲門は設置されなかったため、実戦では使用されなかった。
アクセス 兵庫区和田崎町(三菱重工内)
和田神社(神田兵右衛門彰徳碑)
 神田兵右衛門は幕末から明治にかけて活躍し、数々の功績を残し、「神戸市を創った人」と言われる。神田家は岩間屋として、出在家町で干鰯商・質屋をしていた兵庫の旧家だった。

○和田岬砲台の着工に関する出納を担当。

○学校の設立 県知事だった伊藤俊輔に学校設立を申し入れ許可された。運営は兵右衛門が商家に金を貸し、その利息を工費に充てる方法をとった。10数校を設立。

○新川運河の開削工事

○神戸市議会初代議長

アクセス 兵庫区和田宮通3丁目2-45(和田神社)
瀧善三郎切腹地(永福寺跡)
きのう見し 夢は今さらひきかえて 神戸の浦に 名をやあげなむ  [善三郎辞世の句]

 開港間もない神戸で起きた外国との紛争で、発足後最初の外交問題で苦境に立たされた明治新政府を救い、日本が外国に植民地化されるのを未然に防いだのが、神戸事件の滝善三郎正信の死であった。
 慶応4年(1868年)1月11日、西宮警備を命令された備前藩兵が大砲を引いて西国街道を通過中、三宮神社前で行列を横切ろうとしたフランス兵を槍で以って刺傷させた「神戸事件」が起こり、神戸の町は一 時、外国兵によって占拠されるありさまであった。
 この事件は、明治新政府の素早い方針転換声明と備前藩責任者の処罰によって決着がついたが、全責任を負って同年2月9日、兵庫の津、永福寺[現、(株)カネテツデリカフーズ]で、外国人代表ら立ち会いの面前で切腹した滝善三郎正信(32才)の最期は識者の涙をさそった。その跡地に碑を建て、市民はこの事件に一番の役割を果たした彼に心から感謝の意を表し、その功績を永くたたえてきた。

 昭和8年、今迄あった木碑に代えて立派な石碑が建立された。昭和20年、戦災で寺は焼失したが、碑は無事に残り、境内跡地に出来た「(株)カネテツデリカフーズ」構内に祭られ供養が続けられていた。
 その後昭和44年、地元有志並びに(株)カネテツデリカフーズにより、能福寺の聖域に移設された。

アクセス 兵庫区南仲町1
能福寺(瀧善三郎正信碑、ジョセフ・ヒコの英文碑、北風正造顕彰碑)
ジョセフ・ヒコの英文碑 

 わが国の新聞の父として、米国リンカーン大統領と握手した唯一の日本人として下田の港で開国を迫ったペルリ提督の通訳として有名なジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵)の手になる英文である。神戸港に着いた外人客が神戸のマスコットであった「兵庫大仏」に多数参拝に来るところから能福寺第19世住職 加藤慈晃師がジョセフ・ヒコに依頼して、寺の縁起を英文で作ったものがこの碑である(明治25年)。 わが国最初の英文碑といわれている。

兵庫回船問屋・兵庫新川開発の発起人

 明治元年、鳥羽伏見の戦の時、有栖川宮が東征総督として征途につかれた祭、駿馬と3000両を郡に献上し、又、姫路藩が官軍の攻撃を受けて城下町が戦場になろうとした時、彼が仲裁に入り、軍需金十五万両と引き換えに、紛争を解決させたという巨人。現在日本一のお城、白鷺城が無傷で現存するのは、この人のお陰でである。

 明治元年3月、兵庫裁判所御用掛、商法司法判事、権大族等を歴任。同7年、新川社を起こして兵庫新川の開発事業に関係し、米商会所、第七十三国立銀行等を創立し、その頭取となったほか、神戸製茶改良会社、神戸船橋会社の創立など、実業界にも貢献した兵庫きっての豪商であり、神戸発展の功労者である。明治28年12月5日没。62才。当能福寺檀徒。この碑の文字は伊藤博文の揮毫にして、明治29年兵庫県知事周布公平が建立した。

滝善三郎 顕彰碑

慶応4年(1868)1月11日、神戸三宮において、備前藩兵の隊列を横切ろうとした外国人水兵を刺傷するという事件が起こった。神戸の町は、外国人居留地もあり緊張状態に。明治新政府は政府が誕生して初の外国人との折衝を「運上所」にて行い、第三砲隊長の滝善三郎が全責任を負い、切腹する事で事件は解決する事に至った。切腹は永福寺において行われ、同寺に顕彰碑が建てられました。戦災により永福寺が焼失し顕彰碑は能福寺に移された。

アクセス 兵庫区北逆瀬川町55(能福寺)
高田屋嘉兵衛顕彰碑(竹尾稲荷神社)
 明和6年(1769)淡路島(現在の兵庫県津名郡五色町)生まれ。18歳で廻船業者を志し、淡路と大坂とを往復する瓦船に乗船。寛政7年(1795)、1,700石積の辰悦丸を建造し、本格的に廻船業へ乗り出す。近藤重蔵や間宮林蔵、最上徳内などの幕府役人と接触し、信任を得て蝦夷地交易を許可される。幕命により択捉航路を開き、蝦夷地物産売捌(うりさばき)方となる。近藤重蔵に依頼され、国後島と択捉島間の航路開拓を行い、卓越した商才と度胸で巨万の富を得た。文化9年(1812)、幕府によるロシア船ディアナ号艦長ヴァーシリー・ゴローニン幽囚の報復として、嘉兵衛は国後島で副艦長のリコルドにより捕えらる。ディアナ号でカムチャツカ半島ペトロパブロフスク・カムチャツキーへ連行されるが、翌年帰国。帰国後、嘉兵衛は松前奉行を説き伏せ、ロシア側に侵略の意図が無い事を納得させ、人質解放に尽力。文政10年(1827)の嘉兵衛の死から6年後の天保4年(1833年)に、高田屋を継いだ弟の金兵衛が幕府から密貿易の疑いをかけられ、全財産を没収されて高田屋は没落。
アクセス 兵庫区七宮町1-3(竹尾稲荷神社)
高田屋嘉兵衛本店跡
 高田屋嘉兵衛と西出町のつながりは深く、寛政二年(1790)、淡路島から来住した嘉兵衛は、当地で船乗りとしての頭角をあらわし、嘉兵衛が引退する文政五年(1822)まで、高田屋の本店は西出町に置かれていました。

  嘉兵衛が本店の地に定めた西出町は、ふるくは「佐比江の入り江」が深く入り込んだ浜辺だったが、江戸時代の前期に、兵庫津の出町として町場が形成され、北前船などの廻船がさかんに兵庫津へ寄港するようになると、「佐比江の入り江」は船入り江(北舩入)として整備され、西出町は東出町とともに問屋・船大工などの町として活況を呈すようになった。

 この碑のすぐ西側には、明治中期まで船入り江があり、かって船入り江をのぞんで高田屋の本店・倉庫などが建ち並んでいたと、古老の話が残されている。

アクセス 兵庫区西出町1-5
湊川神社
  
 楠木正成は、延元元年(1336)5月25日、湊川で足利尊氏と戦い(湊川の合戦)で殉節した。その墓地は長らく荒廃していましたが、元禄5年(1692)になり徳川光圀が「嗚呼忠臣楠子之墓」の石碑を建立したので、以来、水戸学者らによって楠木正成は理想の勤皇家として崇敬されるようになった。
 幕末には維新志士らによって祭祀されるようになり、彼らの熱烈な崇敬心は国家による楠社創建を求めるに至った。慶応3年(1867)に尾張藩主徳川慶勝により楠社創立の建白がなされ、明治元年(1868)、明治天皇は大楠公の忠義を後世に伝えるため、神社を創建するよう命じ、明治2年(1869)、墓所・殉節地を含む7,232坪(現在約7,680坪)を境内地と定め、明治5年(1872)5月24日、湊川神社が創建された。
 湊川神社の表門から入り、一番左奥が終焉の地にあたる。(終焉地は別の説もあり)
  
写真左から江藤新平寄進の燈籠【明治6年(1873)9月、佐賀藩出身の江藤新平が寄進した燈籠】
大木喬任寄進の燈籠【明治10年(1877)2月に大木喬任が寄進した燈籠】
大隈重信寄進の燈籠【江藤と同じ佐賀藩出身の大隈重信が寄進した燈籠】
伊藤博文寄進の燈籠

楠木正成戦没之地の敷地内には寄進された燈籠がある。
明治2年(1869)4月に兵庫県知事を辞職した伊藤博文が、同年9月、楠公墓前に寄進した1メートルほどの石燈籠がある。
大正4年(1915)9月、その燈籠の下に石台が築かれた。その石台には伊藤博文と親交の深かった実業家 神田兵右衛門が説明文が刻んでいる。

アクセス 中央区多聞通3-1-1
生島四郎太夫宅(勝海舟寓居跡)
          
 文久3年4月23日、徳川家茂を蒸気船で大阪湾を案内したおり、神戸に海軍操練所建設の必要性を直訴した。その結果、許され、神戸に海軍操練所が建設されることになり、勝も神戸に移住した。その時、自邸が完成するまでこの生島四郎別邸を寓居先として使用した。
 
写真右の門と庭が当時のまま残されており、神戸市の重要文化財に申請中。
アクセス 兵庫区五宮町26-9
祇園神社(生島四郎太夫寄進の石灯篭)
          
 神戸の祇園神社は、京都の祇園神社の祭神が姫路の広峰神社から神輿に乗って京都に移る途中一泊したとされるところである。
 祇園神社には、生島四郎太夫が寄進した石灯籠が残っている。
アクセス 兵庫区上祇園町12-1
諏訪山公園海軍営の碑
元治元年(1864)10月8日、勝海舟は海軍操練所がある小野浜に記念碑を建立しようとしたが、目的は達せられず、海舟の寓居先であった生島家が保存した。大正4年(1915)に寄贈され、神戸市中央区諏訪山町1にある諏訪山公園金星台の地に建てられた。ここにある碑は、諏訪山にある海軍営之碑と同じ形に造られている。生島家で保存されていた碑が諏訪山へ移転する際、巨大な鞘石にはめこみ今の形になった。このため、原碑の側面に刻まれていた松平春嶽の歌は永久に見ることができなくなった。
アクセス 中央区諏訪山町1
兵庫 目次へ