生野義挙 関連史跡

モデルコース

@中條右京・長曽我部太七郎墓−A延応寺−B生野義挙碑−C生野代官所跡−D生野書院−E生野銀山−F山田顕義終焉地−G掛屋−H井筒屋−I山口護国神社−J山口西念寺−K大川藤蔵殉難地−L中島太郎兵衛顕彰碑−M青渓書院−N多田弥太郎顕彰碑−O平野國臣捕縛地−P養父神社−Q西念寺

【宍粟】美国神社(美玉三平・中島太郎兵衛墓) (宍粟市山崎町木ノ谷)
          
 文久3年(1863年)10月14日午後4時半ごろ、生野から逃れて来た美玉三平と中島太郎兵衛、黒田興一郎兄弟は木の谷で押寄せた百姓500人近くに追い込まれた。勢い余った百姓どもは実弾を撃ち始め、美玉は陣笠で弾丸を除けながら凌いでいた。殺気立った百姓どもがわぁわぁと追い立てるのに怒った美玉は「五月蝿き百姓原」と抜刀して追い払っていたが、松の陰から一発狙い撃ちをされて、銃弾は美玉の鼻を斜めに剥ぎ取った。血潮を帯びながら美玉は神社の巨大な椋の木の洞穴に身を隠した。うめきながら美玉は身を隠していたが、出て来い卑怯者と百姓どもの野次る声に腹を立てた美玉は刀を杖に躍り出た。そのとき狙いを付けていた猟師の弾が美玉の胸を射抜いた。中島太郎兵衛と興一郎は神社の側の民家に逃げ込んだ。中島もかなりの手負いであった。中島は弟興一郎に懐から270両を出して、これを持って逃げろといったが、興一郎は兄を見捨てるわけにはいかないと言う。

 しかし、中島はここで斃れたら誰が志を継ぐのかと説き、一時の縄の辱めを受けようとも生きろと諭した。 
 兄を介錯した興一郎はそのあと自ら縛につき、京の六角獄に送られて慶応2年(1866年)2月9日、牢内で病死した。今、美国神社には美玉三平、中島太郎兵衛両氏の墓があり、建立者の中には北垣国道、そして松本良順の実弟で幕臣でもあった林?(はやしただす)の名があるのが興味深い。
 また、境内には興一郎が獄中で兄中島太郎兵衛と美玉三平を悼んだ歌碑がある。「もののふの名はいつまでも木の谷のそのかんばしき楠のもと」

【神河】中條右京・長曽我部太七郎の墓 (神崎郡神河町猪篠)
 文久3年10月14日午後4時ごろ、山口村妙見山で南八郎らと行動を共にしていた中條右京と長曽我部太七郎は、伊藤龍太郎の説得に応じ、妙見山の陣から下山し、生野から脱出することにした。
 伊藤に案内されて追上峠にさしかかり、ここで伊藤と別れて姫路街道を南下することにしていた。 
 中條右京は元は出石藩士であったが、姉小路家に仕え、文久3年5月に起きた姉小路公知暗殺(猿ヶ辻の変)のときには、刺客に対して抜刀応戦し、刺客を退けた人物であった。長曽我部太七郎は阿波の国の町人出身で、筑前黒田家御用達の大坂の商家の手代であったが平野國臣を尊敬し、平野が但馬に潜伏の際に同行して来たのであった。二人は追上峠を越えて、猪篠村まで来た頃に後をつけてきた百姓たちに銃撃された。中條は、自分は浪士ではない、出石藩の者だといったが、百姓どもは聞き入れず、なおも銃撃してくる。やがて、中條が追上の南端あたりまで来たときに、百姓の放った実弾が中條の胸板を貫通し、中條はその場で斃れた。また、長曽我部は追上の中程あたり、猪篠村今西の藤原直蔵というものの家に逃げたところ、猟師の放った銃弾に背中から打たれた。長曽我部はここで自刃させてくれと言ってる矢先に、向かいの家の清左衛門というものが家の中から銃を放った。長曽我部は恨みながら持っていた小刀を投げつけ絶命した。中條の懐には太平記一冊と金二両が、長曽我部の懐にも金ニ両が入っていたという。「生野義挙とその同志」によれば、二人の首は梟木にかけられ死体は付近の小丘に埋められ、墓石代わりの小石が転々と置かれているのみであったという。  

 現在の墓石は山口村西念寺の住職により建てられたものらしい。中條右京享年21才、長曽我部太七郎享年18才であった。

【朝来】延應寺(生野義挙集結地)(生野町森垣)
          
 延応元年(1239年)に創建された寺で、四条天皇が時の名をとって名前をつけられたという。
 文久3年10月11日午後2時ごろ、沢卿一行は生野街道を北上し、森垣村の延応寺に到着した。生野義士の一人、本多素行と延応寺法印とは懇意であったため、生野に到着の際には同寺を一時の休息所に用いる手筈はついてはいたが、沢卿はじめ、追従する浪士たちのいでたちに寺の住持は仰天したという。
 また、沢卿一行が入山した1時間後、生野代官所に対し沢卿名義(変名の姉小路五郎丸)の代官所借用の書状を本多素行を案内役とし長州の白石廉作、水戸の川又左一郎に届けさせ、午後8時、猪野々町の丹後屋次郎左衛門方に移る6時間ほどの時をこの延応寺で過ごしている。
 また、生野破陣後の10月15日午後4時ごろ、病気のため延応寺の漬物部屋に潜伏していた江上庄蔵は森垣村に布陣していた姫路藩兵により捕らえられている。
 現在、境内にある樹齢1000年以上といわれ、県の天然記念物にも指定されている大ケヤキの前には生野義挙の由来が記された延応寺碑が建立されている。
【朝来】生野義挙址  (生野町口銀谷)
          
 昭和15年に代官所跡地の一角に建立されたこの碑は、幅2.5m、高さ5m、厚さ0.6mの花崗岩の大きな碑である。 
 文久3年10月12日に沢卿に追従してきた長州藩奇兵隊第二代総督河上弥市(変名:南八郎)ら少壮派の志士たちによって生野代官所は占拠された。
 無血で代官所を支配した彼らはここから倒幕の狼煙をあげて、京へ進軍するつもりではあったが、内部のなかでは決起か、自重かと未だ軍議が別れ、近隣諸藩の追討と農兵組織の反乱により、本陣は解散状態となり、挙兵はわずか1日で終わった。
【朝来】生野代官所跡(生野町口銀谷)

 天文11年(1542年)に山名祐豊(やまなすけとよ)が銀山掌握と銀山の経営拠点として、築いた三層天守閣を持った平城跡である。この頃山名氏は但馬の守護と因幡の守護とに両家が分裂していたが、祐豊は山名家を統一後、この生野城を拠点に山名家を統括したのであった。この生野城で収めていた山名家の財源の鉱山が祐豊の悲劇を招くことになる。銀山の莫大な財源に織田信長が目をつけて、山名祐豊は信長を敵に回してしまう。信長は、1569年に羽柴秀吉に命じて山名氏の領土に攻め込ませたのである。

 やがて、織田から豊臣、徳川へと銀山の経営権は移されていき、生野城は奉行所へと変わり、享保のころに代官所に変わったといいます。明治になると、代官所は生野県庁として使用されましたが、明治4年に豊岡県に統合されて建物は城壁と外堀以外は取り壊され、大正末期にすべて取り壊されました。

【朝来】生野書院 (生野町口銀谷)
          
大正期の材木商の邸宅を改修し、入口は明治初期の銀山鉱山長の官舎正門を移築されたもので現在は旧家の面影を残しながら資料館として利用されています。展示室には銀山にまつわる書画などの他、生野義挙関連の資料では平野國臣愛用の朱塗横笛や生野代官の川上猪太郎の掛け軸などが展示されています。
【朝来】生野銀山 (生野町小野)
          
 生野銀山は大同2年(807年)に開坑され、天文11年(1542年)には山名祐豊が銀鉱脈を発見、本格的な採掘が始まりました。徳川の時代になると、家康は銀山奉行を設置します。慶安年間(1648年〜1652年)頃より銀産出が衰退し、享保元年(1716年)に第8代将軍徳川吉宗は生野奉行を廃止し、生野代官を設置した。 
 明治元年(1868年)から政府直轄運営となりフランス人技師ジャン・フランソワ・コワニエらにより近代化が進められた。明治22年(1889年)から皇室財産となり、明治29年(1896年)に三菱合資会社に払下げられ、昭和48年に閉山1200年の歴史に幕を閉じた。その歴史の中で掘り進んだ坑道の総延長は350Km以上、深さは880mの深部まで達しています。観光坑道の中にある旧坑道では、ノミ跡も生々しい掘り跡を紹介し、江戸時代の坑内作業を電動人形で再現しています。 観光坑道:約1.000m   所要時間:往復約40分(生野銀山HPより一部転載)
【朝来】山田顕義終焉之地(生野町小野)
 山田顕義は、弘化元年(1844年)10月9日、萩藩士山田七兵衛顕行の長男として生まれました。通称は市之允、諱は顕孝、のち顕義と改めた。安政3年3月、藩校明倫館に学び、安政4年6月、松下村塾に入門。 文久2年(1862年)12月、高杉晋作、久坂玄瑞、志道聞多、伊藤俊輔、品川弥二郎らと共に攘夷の血判書に名を連ねる。文久3年(1863年)3月、孝明天皇の攘夷祈願の上賀茂行幸にあたり、御前警護のため世子毛利定広に随行。同年4月の岩清水八幡宮への行幸にも随行する。文久3年の八月十八日の政変で、七卿とともに長州へ西下するが、途中で京へ上り潜伏する。12月に長州に帰国後、藩から遊撃隊御用掛を命ぜられ、大村益次郎から西洋兵学を学んだ。元治元年(1864年)の禁門の変では、山崎に布陣する真木和泉らの陣に加わる。
 慶応4年(1868年)1月、鳥羽・伏見の戦いにおいて、新政府・仁和寺宮嘉彰征討総督の副参謀に任命される。箱館戦争では戦功を賞され薩摩の黒田清隆らとともに天皇に謁見する。 

 明治3年(1870年)、井上馨の養女、龍子と結婚。明治4年10月、岩倉具視使節団に兵部省理事官として随行。渡米後シカゴ、ワシントンなどを視察後、兵部省一行とともに岩倉らと別れ渡仏。欧米諸国の兵制、法典の調査研究に当たった。
 明治6年6月、帰国後、「兵は凶器なり」と指摘した理事官功程(建白書)を提出した。明治7年の「佐賀の乱」、明治10年に「西南の役」に征討軍の将として参加したが、その戦術は「用兵の妙、神の如し」とうたわれたという。佐賀の乱鎮圧の戦功を賞され、司法大輔に就任し、刑法草案審査委員として法典編纂に従事。翌年、陸軍中将に任ぜられる。明治18年12月、内閣制度が発足、第一次伊藤博文内閣の初代司法大臣に就任。以来、黒田内閣、山県内閣、松方内閣の司法大臣を歴任。
 また明治22年10月、現在の日本大学の前身である日本法律学校を創設。明治23年、皇典講究所内に國學院(現・國學院大學)を創設しました。1月、枢密顧問官に就任。明治25年11月、但馬・生野銀山を視察中、病死。享年49。

〜山田顕義銀山で病死!一説には事故死とも〜

 司法大臣を辞した帰郷していた山田は、結核の病歴がある上に数日来風邪を引いていたが、明治25年11月11日、東京の自宅に戻る途中、姫路に立寄り河合惣兵衛の墓を参拝したあと、「生野の変」で自刃した従兄弟の河上弥市(南八郎)の菩提を弔うため山口護国神社を訪れた。その帰途に立寄った、生野銀山を視察中に卒倒し、そのまま息を引取ったという。しかし、病死と伝えられたが、実は銀山の視察中に誤って立抗に転落し、死因は事故死であるという説もある。伯爵が転落死では世間体が悪いので、病死と発表したのではとも言われている。

 こういった話は他にも残っており、大正5年に高知の歌人、大町桂月が城崎温泉で遊んだときに著した「城崎温泉の七日」には「山田顕義伯爵、甥の南八郎の亡き跡を弔わんとて生野銀山に立ち寄り、誤りて銀坑に陥り死せり。されど、伯の如き名士が銀坑に陥るでは相済まざるを以て、病死として世に伝へたるなり。」とあり、やはり死因は事故死ではないかと思われます。

 また、もうひとつエピソードがあり、彼の遺体を東京へ送るため、まずは姫路に移され、安置された。鉄道庁は顕義の遺体を運ぶために、姫路駅に上等・中等列車を一両ずつ回送することを指示した。顕義の棺は姫路で用意され、それは檜の節なしの一枚板で作られた立派なものだったらしい。そして、彼を収めた棺をいざ列車の中に運ぼうとしたところ、棺が大きくて列車の車内に入らない。しかたがないので、ブレーキバンと呼ばれる、列車の編成の最後部に手押しブレーキが着いた車掌が乗る車両に棺を載せて運んだという話が残っています。

【朝来】掛屋 (生野町口銀谷)
江戸時代の掛屋とは、幕府、大名の蔵屋敷に出入りし、蔵物の処分売却代金の出納、送金や、金銭の両替などを行った御用商人でしたが、生野銀山の掛屋の場合は鉱山の銀を金銭に替えるののが主体の銀掛屋でした。 

 文久3年(1863年)11月7日の京都守護職による生野義挙の取調べで目付の生野町入りの宿泊では、郷宿に泊まる役人のほかに、掛屋に宿泊した者もいました。口銀谷の掛屋津田甚九郎方には御徒目付、岩田三蔵、御小人目付の高橋清八、堀副之助、石野金五郎らが宿泊した。郷宿に宿泊したもの同様、滞在の費用は町方が一切負担させられました。

【朝来】井筒屋 (生野町口銀谷)
江戸時代、生野銀山では旅人の宿泊が御法度とされていた。しかし、公用で生野代官所を訪れた際の宿泊所として、代官所公認の宿屋がありました。「郷宿(ごうしゅく)」とよばれるもので、当時生野銀山には6軒の郷宿がありました。井筒屋を屋号とする吉川家は、生野銀山の有力な山師(鉱山師)で、明治29年(1896年)まで経営していました。(銀山が明治29年に皇室から三菱合資会社に払下げられている。)郷宿の経営は宿屋の他に代官所に出頭する公用人の付添いや、文書の代書など厳格なものであったという。 

 さて、生野義挙における井筒屋での出来事であるが、以前の落ち着きを見せてきた生野の町に川上猪太郎代官が、出張先の倉敷から戻ったのは、生野義挙が破陣した10月13日から10日が過ぎた23日の日であった。
 浪士たちによる代官所占拠に対し、彼らに手助けをしたといわれる役人、百姓、町人、そして、代官所元締の武井庄五郎らに対する措置は、事情やむを得ずとして寛大であった。この措置に対し、不服に思った出石藩から公儀の方に密告が入り、京都守護職松平容保は、御目付戸川?三郎(はんさぶろう)に騒動の取調べに向かわせました。
 銀山町に入ったのが、11月7日で、戸川に随行したのが御徒(おかち)目付岩田三蔵、御小人目付高橋清八、堀副之助、石野金五郎、会津藩公用人の広沢富次郎ら総勢30余名。戸川は浪士たちが生野に訪れ、代官元締の武井と会見した猪野々町の丹後屋次郎左衛門方に。

 この井筒屋には会津藩の広沢の組が宿泊した。 取調べ側からは、代官の川上の穏便な措置を不服として、元締武井の代官所明け渡しの不祥事の責任をとって武井に切腹をせまりました。
 また、役人をはじめ、町人、百姓の追求も迫りましたが、川上代官はすべて応じず、守護職側の取調方の滞在は長引きました。また、この間の滞在費用は町方持ちであったらしく、不満の声が多かったといい、町方は代官に同情的だったという。しかし、翌元治元年(1864年)1月4日、京都守護職は川上代官を京へ呼び出し、生野代官職を解き、奥州伊達郡桑折陣屋(福島県伊達郡桑折町)に左遷しました。
 しかし、川上代官の不幸はこれだけに留まらず、左遷先の桑折陣屋でも百姓一揆にあったいう。 

 現在井筒屋は、平成11年に吉川家から生野町に寄贈され、14年に改修工事が行われ、生野まちづくり工房井筒屋として開館され、館内には沢卿の檄文の他、平野國臣著述の神武必勝論などの史料が展示されている。

【朝来】山口護国神社(殉節忠士の墓、山伏岩)
          
           山口護国神社 入口                         正義十七士の神霊と
          
               自決岩 側面                          自決岩を上から見る
          
              生野義士 墓所
          
 山口護国神社は、この地で自決した生野義挙の志士たちの招魂碑を大正4年に建立し、祀られたのがはじまりとされています。

 文久3年(1863年)10月14日午後4時半ごろ、妙見山の陣から生野の本陣に戻るべく降りてきた南八郎ら志士13名は、集結した農民たちと対峙しました。生野の追討に諸藩が出陣したうわさを聞いた農民どもは村への後のお咎めを恐れ、かくなる上は浪士たちを追い払おうということになり、山口村西念寺で早鐘を打ち、妙見山麓に押寄せたのであった。妙見山麓に街道があり、その向こうには市川が流れている。街道沿いにいる南ら13名と、川辺にいる農民どもとのにらみあいは続した。やがて農民どもは鉄砲で空砲を撃ちかけ、浪士たちを威嚇してきた。つい先程までは浪士たちの手足となって働いていた百姓たちであるが、手のひらを返してきたのである。憎い百姓らめと抜刀して追いかけると百姓どもはパっと散り、引き上げようとすると竹槍を振り回し、空砲を撃ってわぁわぁ騒いで迫ってくる。 そんなことが繰り返されているうちに、川の向こう岸から岩津村の大川勇平という愚者が実弾を放ち、これが26才の小田村信一の胸板を貫いてしまった。2、3人の者が手負いの小田村を担いで、通称山伏岩という岩陰に連れて行き、みなもそれに続き、岩陰で百姓どもの銃弾から逃れました。これ以上、百姓と戦をしても仕方がない、これまでとまず南八郎が腹を切りあとの12名もそれに続きました。このとき見事なのが筑前秋月藩の戸原卯橘(29才)でした。言い伝えによると、戸原は南ら同志たち10名の介錯をしました。介錯を終えた戸原は山伏岩によじ登り、後事を託すために百姓どもを手招きしましたが、誰も近寄るものはいませんでした。戸原は刀を拾い、武士の最後を見よと腹を一文字に切り、喉を突いて同志たちの死んだ岩陰に転げ落ちました。後で検視に来た出石藩が驚いたのは、戸原に介錯された志士たちの首か皆、頸の皮を一寸(約3cm)程を残して切ってあったらしく、出石藩士たちはこれを見て思わず感歎の声を上げたといいます。 
 戸原が死んで、しばらくすると山伏岩の近くの藪の中に二人の浪士がいました。氷田左衛門と草我部某で、百姓どもはまた、わぁわぁ叫びながら二人の後を追いました。すると氷田が後ろざまに羽淵村の元三郎というもの肩先を切りつつけると、元三郎は驚いて川に飛び込み、家に逃げ帰ったがすぐに死んだという。元三郎が斬られて、百姓どもは一目散に逃げ帰りました。そして、静かになった頃を見計らい、氷田左衛門と草我部某は刺違えました。 

 現在、山伏岩の裏には土が盛られています。捨ててあった浪士たちの亡骸を土地の者が埋めたからである。13名の浪士たちは皆、鎖帷子を着けて、懐中には鰹節が2,3本ずつ入れてあったといいます。また、戸原卯橘に介錯された首級は出石藩士により、一人ずつ切り離され、生野代官所に届けられた。
 また、猪篠村で死んだ中條右京、長曽我部太七郎、木の谷で死んだ美玉三平、中島太郎兵衛、山内村で自刃した小河吉三郎らの首級も代官所に届けられました。やがて、中島の首級は高田村の家族が引き取ることになり、17名の首級は山伏岩の後ろに埋めることになりました。正義十七士の神霊と書かれた碑が岩より高くなっているのはそのためだそうです。
 明治元年(1868年)2月、戊辰戦争で山陰道鎮撫総督としてこの地に訪れた西園寺公望は殉節忠士之墓と題した碑を建立しています。

【朝来】山口西念寺(朝来市山口)

 文久3年(1863年)10月13日、生野代官所の本陣を出た南八郎ら少壮派は午後2時に山口村に到着して、西念寺に陣を構え、午後4時ごろに妙見山で本陣を構え、諸藩の追討に備えたという。

 明治元年に山陰道鎮撫総督西園寺公望に提出した西念寺住持の口上書によると、南八郎は本堂を借り受けたあと、畳をすべて取り除かせ、新しい草鞋に履き替えたあと、本堂に入室し、一時余り休息したという。また、その間に旗を数本調達させ、農民どもに酒を振舞ったと記されている。また、翌日の14日午後4時半ごろ、南八郎の下僕、徳蔵は生野に向かうために駕篭の手配を命じられて西念寺の石段前にいたところを百姓どもに袋叩きにされて捕らえられている。

【朝来】大川藤蔵(小河吉三郎)捕縛地 (朝来市山内)

 文久3年(1863年)10月14日、小河吉三郎(水戸藩年齢不詳)は南八郎ら少壮派のいる妙見山本陣に向かい、生野における本陣解散と沢卿をはじめ、同志たちの脱出を伝え、解散の勧告をしたが聞き入られず、やむなく同郷で義挙では最年長の川又左一郎(48歳)とともに下山し、途中大村辰之助(出自不詳)と片山九市(丹後岩滝村)に出会う。地の利がある片山の案内で丹波に落ちることにしたが、歩いていると百姓どもが後を追って来た。 次第に百姓の数が増えて、とうとう覚悟を決めた場所が山内村のサケジ谷という所だった。サケジ谷にある岩の上で小河は遠巻きにいる百姓どもに向かい、諸君らを傷つけてもしかたがないといい(諸説あり)、腹を切った。

 小河の介錯をした川又は自ら縄に就き、大村は腹を切ったが死にきれず、片山もその場で取り押さえられた。3人は出石藩の牢に送られ、川又は武士の面目を保つために紙捻(こより)で作った刀の大小を着けて、首を括って死んだ。大村と片山は後に京の六角獄に送られ、片山は病死、大村は禁門の変の大火に際し斬首された。

【朝来】黒田與一郎・中島太郎兵衛顕彰碑 (朝来市和田山町高田)
          
 中島太郎兵衛は文政8年2月10日生まれ、和田山は高田村の大庄屋で、生野挙兵の時は39歳であった。弟、黒田興一郎は天保5年11月20日生まれで義挙の時は30歳。中島家の旧姓である黒田を名乗っていた。 
 中島兄弟は、但馬における農兵組立て運動に際して、北垣国道らと共に奔走し、美玉三平、平野國臣らの但馬入り後、彼らとともに農兵を倒幕のための転換へと画策している。
 生野義挙を具体化させた文久3年(1863年)9月19日の第二回農兵組立て会議は中島太郎兵衛宅で行われている。生野破陣後は、美玉三平と共に中島兄弟は但馬を脱出するが、木の谷(宍粟市山崎町)で農民に囲まれ、美玉は討死し、中島太郎兵衛は自刃兄の介錯をした黒田興一郎は自ら縛に就き、京都六角獄に送られた。
 翌年に起こった禁門の変による大火の際に獄に入れられた平野國臣以下の生野義挙の同志、天誅組、池田屋事件に関与した者らは斬殺されたが、黒田は槍術家として奥州巡遊中に門人となった会津藩士二人が黒田の庇護をしたので、このときは一命を取りとめたが慶応2年(1866年)12月9日に牢内で病死した。
 中島太郎兵衛、黒田興一郎兄弟の顕彰碑は昭和15年11月10日に建立されました。
【豊岡】多田弥太郎顕彰碑(養父市八鹿町浅間峠)
          
 文久3年(1863年)10月13日、山口村妙見山の南八郎ら少壮派の説得を諦めた多田弥太郎は生野本陣に戻ると沢卿に生野脱出を勧告する。午後10時に沢卿以下4名の同志と本陣を後にしたが、山中で沢卿一行から遅れてしまい、途中で三田尻に向かうのを諦めて、大坂に逃れて行った。
 しばらくは京、大坂に潜んでいたが、文久4年(1864年)2月に因州に赴くことになった。
 途中、城崎に立寄り旅籠三木屋に立寄って、出石に居る妻子を呼び出した。
 夜に多田の妻子が城崎に向かうことを知った出石藩士は、妻子の後をつけて城崎に潜入する。
 やがて、多田の潜伏先を嗅ぎつけた出石藩の捕り方は三木屋を包囲して、多田は捕らえられ出石に送られることになった。多田を護送したのは出石藩士の増田慎三、西川八十之進、西川富太郎の3人であったが、城崎から豊岡を越えて出石に向かわず迂回して養父町寄宮を通り、浅間峠に向かった。
 浅間峠を越えると、出石の藩領である。駕篭を用いて多田を護送する3人の出石藩士は浅間峠にさしかかったところで、いきなり抜刀し、駕篭の中の多田を刺殺した。文久4年2月18日のことだった。多田暗殺の密命を果たした3人はその場で牢役人に多田の遺体を引き渡し、藩は公儀対し、かねてから探索していた家来を召し捕り護送していたところを、途中に乱防に及び手に余ったので討ち果たしたと、藩の江戸留守居役は虚偽の報告をした。
 後にこれを知った出石藩主、仙石久利は怒り事件に関与した者らを蟄居、役儀御免、減知などの処分を命じている。
【養父】平野国臣捕縛地(養父市上網場)
          
 文久3年(1863年)10月15日午前10時ごろ、平野國臣、横田友次郎は上網場村旅籠京屋で豊岡藩兵により捕縛された。10月14日の午前2時に生野を脱出した平野と横田は八代(朝来市)から長野村を越えて建屋(養父市)の北垣晋太郎を訪れ、その夜は広谷(養父市)の旅籠材木屋で止宿。
 翌朝、駕篭二丁を雇い、城崎へ赴くために上網場を通ったところを豊岡藩兵と遭遇してしまった。慌てた平野たちは駕篭を旅籠京屋に着けさせて、中に客を装って入っていった。
 しかし、奥の離れに案内されたときには豊岡藩兵に包囲されていた。豊岡藩兵に詰問された平野は、自分は因州の者と名乗り、これから湯島(城崎)に向かうもので怪しいものではないと言った。
 しかし、因州から湯島に向かうのに上網場を通る筈はない。怪しいと思った豊岡藩兵は、ならば湯島に行かれるなら案内いたそうといい、京屋の裏手から舟に二人を別々に乗せて、円山川を下って豊岡へ向かった。 
 豊岡藩の獄に入れられた平野國臣はどれほどの人物か豊岡藩は知らなかったが、折りしも文久3年2月に京で起こった、足利三代木像晒首事件で捕縛され、豊岡で幽閉されていた三輪田綱一郎から平野の素性を知り、以降、彼に対する待遇が変わった。藩士の中には袴の中に徳利を忍ばせて、牢内に差し入れしたりするものもいたという。
 しかし、翌年の1月5日には平野、横田は姫路に護送され、11日には京の六角獄へ移された。元治元年(1864年)7月20日、禁門の変がおこり、その騒動のなかで平野、横田は斬首された。平野國臣37歳、横田友次郎31歳であった。
【養父】養父神社(養父市養父市場)
          
 崇神天皇の頃、天平9年(737年)に創建されたといわれており、養父の明神さんと親しまれている。本殿は元禄の頃に創建されたものである。
 生野義挙の原動となった農兵組立ての第1回目の会議は、文久3年(1863年)9月5日に養父神社の別当所である、普賢寺(現:社務所)で行われた。生野挙兵のひと月ほど前のことである。
 北垣晋太郎、美玉三平らの画策により、朝廷、幕府からも農兵組立ての御沙汰が下り、手兵のない生野代官川上猪太郎もこれには賛同であった。美玉三平が但馬滞在時に綴った日記、渓間日乗には「朝五ツ時(八時)ヨリ養父明神別当所エ会合ノ人数 追々登山セリ。安麿(美玉のこと)ハ同志連坐ノ上登山スベキトテ相待チ居ルニ 四ツ過(十時過ぎ)ニヤ 袴着セシニ壮夫来リ、登山セシニ弐十四五輩連坐セリ。」とあり、朝から養父明神別当普賢寺に集る様子が記されている。
 また、日記には上座に銀山地役人が座り、地元の有力者が参加した様子も記されている。
 この会議で美玉は但馬の有志と顔つなぎをし、農兵組立てに賛同する川上代官は、有力な者に農兵周旋方の取り決めを申し付けていたので、一部の反対意見は見られたが、会議は一応のまとまりを見せた。
 それから、3日後に美玉は湯島で幕吏から逃れて但馬に入った平野國臣と再会し、昼夜農兵組立てについて談合する。9月11日には、美玉は本多素行とまだ決して身辺が穏やかではない平野とともに養父明神祭礼に参詣し、境内で行われる相撲を夕方前まで見物したと彼の日記に記されている。
 美玉はその夜も平野らと語り、酒を呑みすぎて縁側から転落したというユニークな話も残っている。
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