尼崎・西宮

【尼崎】残念さんの墓

元治元年(1864)7月19日に勃発した「禁門の変」で長州藩は大敗。山本文之助も尼崎藩兵に捕えられ、尼崎の北口御門の牢舎で「ああ残念だ!」と連呼しながら割腹自殺したといわれ、その後、里の人がその心情をくんで杭瀬・二の坪(産業郷土会館東側)に葬って、その霊を慰めたので、誰いうとなく「残念さん」と呼ばれるようになった。現在では、この残念さんのお墓は「願かけ神様」として、多くの人々がお参りにくる。

 また、昭和何年の項からか、入学試験の神様としても有名になり、新聞などに記事が出てからは入試時期になると残念さんのお札を貰いにくる親子が相当の数にのぼるそうな。

アクセス 尼崎市杭瀬南新町4-9
【西宮】今津砲台跡
          
 今津の海浜部に砲台が築かれたのは、江戸時代末期のこと。当時、江戸幕府は度重なる外国船の来航に不安を感じ、沿岸防備のため大阪湾岸に多くの砲台を作った。砲台の位置は勝海舟が計画し、今津では港の入り口東側におかれた。
 砲台は文久3年(1863)に建設が始まり、慶応2年(1866)後半になってようやく完成。砂地に建てるため千本を超える松グイを打ち込み、そのうえに、瀬戸内海中部の島々から運んだ花崗岩を積み上げた。通常の二倍の賃金で熟練工を集め、突貫工事で完成を急いだが、あしかけ4年を要する難工事となった。
 砲台の大きさは直径10数メートル、高さ10メートルから12メートルで、二層目をめぐる砲眼からは、大砲で四方を狙うことができた。
 大正4年(1915)、砲台は民間に払い下げられたあと、石を取るために壊され、今津港から運び出された。ここに置かれた石材は、その砲台の一部。
アクセス 西宮市今津真砂町
【西宮】西宮神社・六英堂
          
 「明治高官集会所」、「明治の論戦跡」などの異名をとった岩倉具視公私邸内建物の一つ「六英堂」が、兵庫県西宮市の西宮神社内で公開されている。
 この建物は、もと東京・丸の内の馬場先門にあり、征韓論の盛んなころ、木戸、大久保、伊藤ら諸公がしばしばこの室に会合して密議をこらした。
 明治16年7月の岩倉公薨去後は、当時宮内省御用掛であった多田好間氏(のちに『岩倉公実記二巻』を編纂)がゆずり受け、まず角筈村に移して「隣雲軒」と名付けて保存を図った。ところが、この場所が新宿停車場の敷地内に入り、再び渋谷に移したといわれる。その後、川崎男爵(川崎造船社長川崎芳太郎氏)の所有に帰し、保存の目的をもって神戸の地に移転する計画がたてられ、やがて同邸の屋敷地である布引丸山(神戸市葦合区布引丸山)に解体、移築するという数度にわたる移転を経て現在に至っている。布引の地に移築した機に、木戸孝允、西郷隆盛、大久保利通、岩倉具視、三条実美、伊藤博文ら6人の位牌と写真をまつり、当時の日本を代表する6政治家の英知を集めた建物という意味で「六英堂」と名付けられたのである。
 建物は木造平屋建て、12畳半2間と鞘の間を容したもので、外観、内部構造、建具類に至るまで変更を加えることなく、当時の姿をとどめている。
アクセス 西宮市社家町1-17
【西宮】西宮砲台跡、
          
 幕末動乱の最中アメリカ・ロシアなどの軍艦の来航を見た幕府が摂海(大阪湾)防備のために設けた砲台で、わが国の歴史の転換期を知る得難い証人として国指定の史跡。着工は文久3年(1863)。幕府が倒れ完成は定かではない。その後空砲試射に失敗、さらに内部の木造部分を焼失。1975年に5年にわたって大修理、内部は鉄骨で補強、外壁は築造当時に復原しました。なお今津砲台は、福応神社(今津大東町)に記念石がある。
アクセス 西宮市西波止町
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