松前町

法華寺(大庭久輔・赤羽音吉墓・徳川陸軍士官隊墓碑)・砲台跡
 本堂脇の墓地にある会津藩士大庭久輔と旧水戸藩士関清輔墓(左)と、会津藩士赤羽音吉墓(右)

 大庭久輔は、禄高7石3人扶持で、幕臣朝倉早之助の隊士として戦い10月5日松前攻防戦にて戦死。享年24歳。
 赤羽音吉は、禄高は6石2人扶持で、10月5日の松前の攻防戦にて戦死。享年26歳。
 関清輔については、新撰組隊士であったとする資料もあるが、はっきりせず真偽は定かではない。
 現在の墓石は、共に二代目で子孫によって建立されたもので、古い墓石もその傍に残されている。

     
 
     
11月4日、松前藩攻略の旧幕府軍は、法華寺の墓地に大砲を備え付け、松前城を砲撃した。(写真右)

11月1日からの死者7名が葬られているが、刻銘は戒名のみで個人を特定することは出来ない。この「士官隊」は彰義隊をさしているらしい。(写真左)

アクセス 松前町字豊岡258
松前奉行所跡
 慶長5年、居館の南方に新たに築城を始め、慶長11年に完成させ福山館と呼ばれ、松前城の前身となった。 江戸末期、ロシアの南下に対するため文化4年(1807)から文政5年(1822)まで北辺警備のため、蝦夷全島は幕府の直轄領となり松前家は奥州・染川3万石(他に預かり地1万4千石)へ移封となり、松前奉行所として使用された。
 嘉永2年(1849)、海防強化のため幕府は松前崇広を城主格に任じ、新城の築城を命じた。 翌年に着工、安政元年(1854)に完成した。 日本式築城の最後の城となった。

アクセス 松前町福山104
ゴローニン幽閉地
ゴローウニン事件
 幕府が松前藩を梁川に移し北方警備を強化している中、文化8年(1811年)千島列島などの測量を命ぜられたロシア軍艦ディアナ号が国後島沖にやって来た。国後に上陸したゴローウニンら8人はたちまち捕らえられ、船に残った副艦長リコルドは南部藩と砲撃戦を行いましたが、オホーツクへ引き返した。

 ゴローウニンらは松前に連行され、取り調べを受け、捕虜として抑留されることになる。翌年には脱走を試みるが、失敗に終わり再びとらわれの身になった。

 この文化10年8月にリコルドは、中川五郎治や6名の漂流民とともに国後に来て、ゴローウニンの釈放について交渉したが許されなかった。たまたまそこへ高田屋嘉兵衛の観世丸が現れ、嘉兵衛と4名の水夫を伴ってカムチャッカに帰港し、ゴローウニンらとの交換を申し入れた。翌文化9年9月リコルド副艦長の指揮するディアナ号は箱館に入港し、ついにゴローウニンらは高田屋嘉兵衛と交換、釈放された。

アクセス 松前町福山 郷土資料館横の徳山大神宮にある
土方歳三宿泊地跡
松前を制圧した旧幕府軍は遊撃隊長人見勝太郎が松前奉行となって行政を担当し、土方歳三は江差にむかった松前藩兵の動向を見つつ、松前に5日間滞在した。

宿舎は川原町の桜井小膳の住宅(済衆館という医学校併設)。

アクセス 松前町福山 松前奉行所前を郷土資料館に向かうと左手にある。
松前城
  
 明治元年10月20日に鷲ノ木に上陸した旧幕府軍約3,000名は、同月25日、五稜郭に無血入城し、当然、松前藩にも降伏を促した。
 しかし、旧幕府軍上陸前の藩内クーデターで勤皇派が藩政を掌握していた松前藩がこれを無視したため、軍議の上、松前城攻略を発動。
 10月27日に出発した土方歳三率いる約700名による攻撃は、蟠龍、回天などの艦船による海上からの援護射撃も行い、11月1〜5日まで行なわれた。
 士気上がる戦闘要員約400名で対峙した松前城であったが、城近くの高台にある法華寺を占拠した旧幕府軍は、城への突撃を開始し、松前藩の、「大砲の装填は城内で行い、撃つ時だけ城門を開いて外に出して発射する」戦法を読み取り、土方の指示で、大砲を門外に出した途端に射手を狙撃し、その虚を突かれて城門を突破され、松前城は数時間の戦闘で落城し、松前藩兵は城下に火を放ち江差へ退却した。
 松前城天守台石垣に残る砲弾痕は、海側に面した石垣に残るものであり、この時の海上からの艦砲射撃による痕跡と伝えられている。
 一旦、旧幕府軍の手に渡った松前城は、この後の明治2年4月17日、新政府軍に奪還され、その時も、新政府軍の軍艦甲鉄ほか、四艦による海上からの砲撃があった。砲座七ヶ所大砲37門を有した和洋折衷・最後期に築かれた城郭があっけなく落城した。
アクセス 松前町字松城144 TEL : 01394-2-2216 入館料 大人210円 小人100円 開館 9:00-17:00(4月〜9月)
沖の口番所跡
1600年頃に設置され、アイヌと松前藩の交易の中心として栄えた。19世紀初頭には、北海道での交易地は「松前・江差・箱館」の港だけで、取扱量は松前港は北海道の年間の半分を取り扱うなど質量ともに道内一であった。
アクセス 松前町 県道435号線 松前港線沿いにある。公園になっているのでわかりやすい。
松前藩主墓所
 松前藩の始祖・武田信広から19代にわたる歴代藩主、その室や子などが眠る墓所で、イチョウやオンコの古木にかこまれて55基の墓碑が静かに並んでいる。墓碑は五輪塔形式で、石造りの屋形風覆屋(やかたふうおおいや)に収められているものが多く、なかにはキリシタン信仰と関係があるとされる織部(おりべ)灯籠や十字型H字が刻まれた墓も見られる。国指定史跡になっている。
 写真は18世徳広公の墓。
アクセス 松前町西館 松前家墓地 すぐわかります
松前藩屋敷
     
 幕末には人口3万人、仙台以北最大の都市といわれた最北の城下町を再現したテーマパーク。各建物に入ると、等身大の本物みたいな人形が座っていたりしてビックリします。テープ解説も交えて、幕末の生活を紹介する。「自身番小屋」「漁家」「沖の口奉行所」「廻船問屋」「番や」「商家」「旅籠」「武家屋敷」「民家」「茶屋」「食べもの屋」「髪結」など、14棟の建物がある。
アクセス 松前町字西館68 Tel 01394-3-2439 開館時間 AM 9:00〜17:00 開館期間 4月2日〜11月上旬・期間中無休
折戸浜砲台跡・古戦場跡
     
 明治元年10月26日、旧幕府榎本軍の箱館制圧によって箱館府と新政府軍は一旦青森へ退いた。明治2年4月6日、新政府軍の先発隊1500名が青森港を出航し、9日乙部に上陸した。4月17日午前9時30分には新政府軍の艦隊が松前沖に結集、正午まで折戸台場や松前城に向けての艦砲射撃が浴びせられた。陸兵が松前に接近してきた午後4時より砲撃を再開、4時30分には陸戦が展開される。台場を守る松岡四郎次郎は兵を散開させて戦ったが、持ちこたえられず退却を命じ、松前城も包囲され、城内の兵も吉岡方面へと敗走した。
アクセス 松前から江差へ向かって折戸浜の手前、消防署を過ぎてすぐの左手小さなパーキングに標柱が立っている。木碑のため、書かれている文字が判読しづらい。注意して見つけて欲しい。
松前招魂社(福山官修墳墓)
     
 松前攻防戦で亡くなった政府軍戦死者をここに埋葬し、明治2年10月に神葬による慰霊祭を行った。
 咽喉をついて自決した川内美岐子の墓がある。彼女は靖国神社に祀られた第1号の女性になる。
アクセス 松前町字豊岡神上山 え?この道通れるの? と思うような道を進む。不安になるまえに地元の方に聞いたらいいが、道はそんなにひどくないし、一本道なのでわかりやすい。
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