木古内町

木古内古戦場跡
     
木古内戦は第1次(4月13・14日)、第2次(4月20日)とあり、第1次は大鳥圭介自ら斥候に出て旧幕府軍が勝利したが、松前が破られた後の第2次は兵力と地形面での不利により敗退し、全軍を矢不来まで下げた。このいかにも壊れそうな木碑というかベニヤで作った看板の横に、この構図からでは見えないが「白馬剣士奮戦地」と書いてある。これは大鳥圭介の事だそうだ。
アクセス 木古内町 国道228号線沿い。木古内浜の海水浴場付近。スピードを出しすぎると見落とすかも。
咸臨丸沈没地
     
 咸臨丸は1857(安政4)年に建造された木造蒸気船で、幕府の長崎海軍伝習所の練習艦となり活躍。
1860(安政6)年、日米修好通商条約の批准書を交換するためにアメリカ軍艦ポーハタン号と共に、幕府所属の船として初めて渡米。
 1868(慶応4)年戊辰戦争が始まり、海軍副総裁榎本武揚の指揮で品川沖を脱走したが、銚子沖で暴風雨に遭い離脱。清水に入港し修理したが、新政府軍軍艦に襲撃された。この時、船内にいた船員は全員死亡しその遺体がうち捨てられたが、これを収容して埋葬したのが清水の次郎長。
 明治時代には開拓使の輸送船として活躍したが、仙台藩家老片倉小十郎の家臣達401名を移住させるため、北海道小樽へ向け出航し、その途中北海道木古内町和泉沢沖で暴風雨により遭難し、サラキ岬で沈没した。遭難者の氏名はサラキ岬の現地解説板に書かれている。
アクセス 木古内町サラキ岬
建有川寒門跡
1868(明治元年)10月28日、五稜郭を出発した土方歳三率いる松前藩攻略軍は、11月1日に箱館と松前藩との境界である寒門を通過した。
アクセス 木古内町と知内町との境、国道228号線沿い
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