北斗市(旧上磯町・大野町)

矢不来天満宮
     
茂別館跡−下国安東式部大輔家政の居館。
茂辺地川左岸の標高約34m程の丘地の南端に位置し、南の大館、北の小館からなり、自然の沢で区画されている。明応5年(1496年)、アイヌの襲撃を受けて陥落し、再建されることなく廃館となる。道南にある12館跡中、雄大で、土塁もよく保存されている貴重なもので、国指定史跡になっている。

明治2年4月28日の新政府軍総攻撃で、この天満宮に布陣していた衝鋒隊は、永井蠖進斎と天野新太郎を失って敗走した。

アクセス 北斗市矢不来129
矢不来台場跡
箱館戦争の時、最も激しい戦いがあった台場。
 函館の押付台場と向かい合い、函館湾を守るため最初は寛政〜文政年間(1799-1821)に造られ南部藩が守っていた。
 安政元年(1854)蝦夷地は、幕府が直接守ることになり、函館奉行の竹内保徳などにより、この台場の増強が必要なことを幕府に話している。
 明治2年(1869)箱館戦争では、この台場を幕府脱走軍が修理し大鳥圭介ほか約500名が守っていましたが、同年4月に官軍の激しい攻撃にあい七重浜方面に逃げている。
 この戦いで衝鋒隊長大野新太郎ほか死傷者約70名を出している。
アクセス JR江差線茂辺地トンネル上付近 国道228号線を茂辺地から旧街道を入ると台場跡の石碑が見えるはず。
富川八幡宮
 矢不来から敗走した大鳥圭介軍は、ここで体制の立て直しを命じたが、新政府軍の追撃は厳しく、たちまち乱戦となり、山中に散兵した杜稜隊は壊滅的な打撃を受け、額兵隊をしんがりとして有川へ敗走した。
アクセス 国道228号線を富川で旧道にはいるとある
有川官修墓
     
 七重浜より矢不来にかけて激戦地となり、両軍ともに多数の戦死者を出したが、ここには、七重浜で戦死した弘前藩士10名と箱館府兵14名が葬られている。最初は有川大神宮の境内にあったが、大正3年に現在地に移した。
アクセス 上磯町中野通2丁目2(現在は北斗市)
松前藩戸切地陣屋跡
     
     
史跡松前藩戸切地陣屋跡

 この陣屋は、安政2年(1855)幕府に命じられ松前藩が築いた。構造は、四稜郭で亀が首を出した形をしており6つの砲座がある。郭内には17棟の建物があり、約120人で守備していましたが、完成から13年後の明治元年(1868)箱館戦争の時、相手方に陣屋が使われないよう建物に火をつけ焼き払った。
 この陣屋は、保存状態もよく城造りの資料として価値が高いことから、昭和40年3月、国の史跡に指定された。

アクセス 北斗市野崎 案内看板がたくさんあるので、わかりやすい
光明寺(新政府軍墓地・永井蠖伸斎墓碑)
      
明和4年(1767)創建。箱館戦争の榎本軍永井蠖伸斎、網代清四郎両人の墓。箱館戦争官軍、松前、安芸福山、越前大野三藩の戦死者墓。
アクセス 北斗市本町290
野戦病院跡
箱館戦争で野戦病院が置かれたところ。
アクセス 道を忘れてしまいましたが、たしか意富比神社の近くだったような気がします
意富比神社
箱館戦争と意冨比神社の戦い

 明治元年(1868)旧10月20日旧幕府軍は、森町(鷲ノ木)に上陸し、本隊は箱館(現函館)に向かい、分隊は峠下コースを進軍し、10月24日午前7時頃、風雪の中、今の峠下から五稜郭へ進軍のため向かおうとする榎本軍大鳥圭介部隊を阻もうとする官軍藩兵とが市渡で遭遇戦になり意冨比神社境内を中心に戦闘になり白兵戦になりました。
 しかし、作戦に長ける榎本軍には官軍は相手でなく、敗走する官軍を南大野まで追撃し、約1時間の戦いであった。この間大鳥部隊の放った大砲の弾が、今の十字街や下町あたりの家にあたってもえあがり、強い北風にあおられて十数件が消失しました。
 村民は銃声や火災に逃げまどった。両軍の死傷者はかなりの数であっただろう。官軍の墓だけでも10以上になっている。
 なお、意冨比神社のイチイの木に弾痕がある。

アクセス 北斗市本町 大野郵便局北
無縁墓地
 明治元年10月24日の早朝に、ここ大野を戦場として戦死した福山藩の戦死者8名中、千賀猪三郎と松本喜多治の両藩士の墓がこの地に残っており、他の藩士の墓は大野町本町の光明寺に4名の墓があり、他の2名の藩士については未調査であるが、無縁仏としてここに葬られているともいわれている。この無縁墓地は、大野唯一のもので、行路病者も葬られているという。
アクセス すいません 記憶にないです
稲荷神社・川濯神社(旧幕軍作戦本部)
 稲荷神社・川濯神社

石の大鳥居は安政6年に建てられた。旧稲荷神社は箱館戦争で榎本軍の作戦本部として2度使われている。

アクセス 北斗市市渡 市渡小学校付近
市渡小学校の栗の木
 ここ市渡小学校校庭に樹齢百年以上も経たと推定されるクリの木が2本ある。このクリの木は、明治元年(1868)から翌2年の箱館戦争の時に市渡稲荷神社を榎本軍が作戦本部に充てた際に、榎本武揚の命により駒(鈴木駒蔵)という人が植樹したものとされている。鈴木駒蔵は、現在の(ウロコサン)吉田文三宅付近に居住し、農業などをしていた。

 吉田家は、榎本軍の仮病院(野戦病院)として利用され、同校の東側のクリの木は当時江差山道に面して築かれた土手に東西一列に数十本植えられたものである。

 昭和9年校舎が新築されるに至り、このクリの木は2本だけを残して伐採された。現在も土手に残されている木の根本や塹壕跡に当時の面影を偲ぶことができる。

アクセス 北斗市市渡
焔硝倉の沢
 明治元年(1868)の冬に、大野村に榎本軍の額兵隊長・星恂太郎以下300人が官軍との戦いに備えて陣地を構築した。
 翌春には官軍との交戦は必至であり、江差から上陸すれば江差山道の通過は当然であったと思われた。
 そのためここに陣を構えたのは、見通しが良いなど地理的条件を考慮して焔硝倉(火薬庫)をこの沢においたものと考えられる。
 この付近の左右の峰地帯には散兵壕数十個があり、突出しの沢には榎本軍の方形台場がある。
 当町に住んでいる古老は「火薬は赤ダモの木の箱で運んだそうだ」と語っており、この沢にある大きな赤ダモの木の根元に焼けこげた跡が残っている。
 今でもこの辺の沢を焔硝倉の沢と言っている。
 この地帯は七飯峠下のR5からR227に入ってすぐの山に設けられています。
アクセス 国道227号線 市渡小学校から中山峠に向かって右手に見えます
松前藩番所跡
 市渡T字路より江差方面に約5キロ進むと進行方向左手に下川汲橋がある。この橋を渡り北西の方向に上川汲沢の旧江差山道を150m程行くと毛無峠の入口にあたる。この入口付近に松前藩の番所跡がある。旅人の事故やオオカミの襲来、クマの出現などの対処のため設置されたものと言われている。
アクセス 説明文をどうぞ
無名戦士の墓
 向野(小川地区)・澤村家の水田の畦に、箱館戦争の犠牲者の墓がある。

 当時、市渡村の名主は澤村久之丞で、箱館戦争勃発と同時に榎本軍が陣を構えるなど、否応なしに戦争の渦中に巻き込まれ、名主として大変苦労したという。

 澤村家は間口が十間もあり、家の半分は土間だったため、榎本軍は下二股口(台場山)などに陣地を構築した際は、作戦本部に充てられた。土間には銃が4.5丁ずつ組んで立てられ、澤村家は幹部の宿舎にもなったそうだ。

 この一体は、澤村家の本家や分家が集まる篤農家ばかりで、水田の畦に直径80cmほどの自然石を置いて「箱館戦争無名戦死者の墓」としてまつっている。

 毎年8月13日には、一族そろって供養を続けているが、この戦死者が新政府軍なのか榎本軍なのかはっきりしていない。

アクセス これは少しわかりにくいが、国道227号線を中山峠方面に向かって、焔硝倉の沢を越えて、しばらく行くと左に入る道がある。左折してすぐ左折する道路である。そこまで行くと看板が出ているのでわかりやすい。国道から曲がるところだけを気をつけたらいい。
二股口古戦場跡
     
     
     
 五稜郭を制圧した榎本軍は、新政府軍を迎え撃つための準備に取りかかる。江差方面から上陸し江差山道を通過するのは十分想定された。従って榎本軍は山沿いに散兵壕や台場を築き、下二股川の崖をはさんで反攻を防ぐ作戦に出た。
 
新政府軍は明治2年、予想通り乙部・江差から上陸した約600人が山道を通った。
 
一方榎本軍の土方歳三を隊長とする約300人は台場山へ砲台も築き二股口で待ち構えていた。
 
4月13日、新政府軍は対岸にたどりつき戦闘が開始された。川を渡り天然の要塞である二股口を突破しようと何度も試みるが土方隊の発砲で押し返された。
 
海岸線矢不来の戦いで榎本軍が敗れたため、土方隊は5月1日、陣地を放棄して五稜郭方面へ退却した。
アクセス 国道227号線の中山峠手前(北斗市側)右手にあるのでわかりやすい。
佐藤安之助墓
 箱館戦争の台場山を中心とした戦いは、明治2年4月13日から18日間にわたり乙部に上陸した新政府軍約600人と榎本軍約300人が、この台場山周辺で大激戦となり、新政府軍軍監駒井正五郎が戦死した。
 
この墓はその激戦で戦死した佐藤安之助のものである。
 
墓には「佐藤安之助鹿児島藩従者・明治2年4月24日」と刻まれているが、「弘前藩記事・戦死履歴」には「文政10年8月18日生・鹿児島藩伊集院宗次郎軍夫」、開拓使編「戦死人墳墓明細履歴書」に「42歳陸奥国津軽郡駒越村」とあるように、その履歴はほぼ明かされている。
アクセス 二股口古戦場入口を通り越すと右手に見える
新政府軍戦死者慰霊碑
佐藤安之助墓近辺にある。
天狗岳
 天狗岳(標高530m)は、箱館戦争の激戦地のひとつとして有名である。旧江差山道はこの山につけられており、旅人の難所のひとつであった。

 現在も北側中腹と裾野に旧道路が見られる。この道路は渡島と檜山の物資の交流はもちろん、人々の交通に大きな役割を果たしていた。こうして交通の要所である天狗岳の山道一帯は、明治2年4月13日の箱館戦争の戦場として、土方歳三の部下、友野栄之助等が100人の兵士を指揮し、最も冴えたゲリラ戦術を展開したところである。

アクセス 中山峠手前に看板がある。見落としやすいので注意して探して欲しい。天狗岳の看板がある。
中山峠
 函館・江差間の国道227号線は、渡島と檜山を結ぶ動脈である。

 明治元年から2年にかけて箱館戦争があり、緒戦を制した榎本軍は、山道沿いに塹壕を築いた。乙部、江差から反撃に転じた新政府軍の進撃を土方隊が台場山で食い止め激しく戦った。しかし、榎本の命で五稜郭へ退却した。

アクセス 国道227号線 中山峠
北海道 目次へ