函館(七飯)

弁天台場跡

 西洋列強からの圧力が増してきた江戸末期に、幕府は蝦夷地を2度目の直轄領とした。
 安政元(1854)年、箱館奉行竹内下野守と堀織部正は、箱館の警備について幕府へ上申し、弁天岬台場を築造することになった。
 台場は、安政3年、10万両の予算で、現在の函館どっくの一角に着工された。
 設計・監督は五稜郭と同じ武田斐三郎によるもので、不等辺六角形(周囲約684m、面積約32、340u)をした台場は、元治元(1864)年に完成した。この台場が実際に使われたのは、箱館戦争の時であった。
 台場を占拠した旧幕府脱走軍は、新政府軍と砲戦を展開したが、新政府軍に圧倒され、明治2(1869)年5月15日、台場に籠城していた箱館奉行永井玄蕃ほか約240名全員が降伏した。
 台場はその後、弁天砲台として陸軍省の所轄となり、函館砲隊が守備していた。
 明治29(1896)年、港湾改良のために取り壊されて周囲が埋め立てられたので、今は昔の姿を知ることができない。

アクセス 函館市入舟町1 函館どっく造船所門に木碑あり 入舟児童公園に看板有り
高龍寺(箱館病院別院・傷心惨目の碑)
     
 高龍寺は、寛永10年(1633年)松前の曹洞宗法源寺の末寺として亀田村(現在の市内万代町辺り)に建てられたのが始まりで、市内で最も古い寺院である。
 宝永3年(1706年)箱館の弁天町に移転後、幾度か大火などのため建物を焼失し、明治12年(1879年)この地に移転した。明治33年(1900年)に完成した本堂はケヤキ、ヒバ材で建てられ、同43年(1910年)に完成した山門は総ケヤキ造りで、東北以北最大の山門といわれ、また、彫刻が見事である。いずれも当時の名工たちの作で、明治時代末期の貴重な木造寺院である。
 境内には、明治2年(1869年)の箱館戦争のとき、野戦病院となったこの寺で斬殺された会津藩士を供養する「傷心惨目」の碑などがあり、墓地には勝海舟と親交があった渋田利右衛門や、日本最初に種痘を行った中川五郎治など著名な人の墓がある。また、松前藩家老で、人物花鳥にすぐれた画家であった蛎崎波響の最高傑作「釈迦涅槃図」(北海道指定有形文化財)を保存している。

傷心惨目の碑
 高龍寺本堂の右手にある石碑。箱館戦争時、旧幕府脱走軍負傷兵の仮病院であった同寺(当時は大黒町)に新政府軍の兵士が乱入し、負傷者が斬殺された。
 この碑は、斬殺された兵士を供養するため、明治13(1880)年旧会津藩有志により建立されたものである。
 明治2年(1869年)5月11日、箱館戦争最大の激戦が箱館の市街地で行われた。当時の高龍寺は、もっと坂の下にあり旧幕府脱走軍の箱館病院分院にあてられたが、同日、新政府軍の先鋒隊が乱入し、傷病兵らを殺傷して寺に放火し、会津遊撃隊の者が多数犠牲となったという。明治12年(1879年)高龍寺は移転、翌13年に旧会津藩有志がこの碑を建て、斬殺された藩士を供養した。碑面「傷心惨目」は、中国、唐の文人李華の作「古戦場を弔う文」からとったもので、文字は中国南宋の忠臣岳飛の真跡を写したものである。

アクセス 函館市船見町21-11
称名寺(土方歳三供養碑・高田屋嘉兵衛墓)
称名寺

称名寺は、正保元年(1644年)円龍という僧が亀田村(現市内八幡町辺り)に阿弥陀庵を建てたのが始まりといわれていることから、市内では高龍寺に次いで古い寺院である。明暦元年(1655年)阿弥陀堂と称したが、元禄3年(1690年)松前の浄土宗光善寺の末寺で称名寺と改称し、宝暦5年(1755年)箱館の富岡町(現・弥生町)に移転した。明治12年(1879年)の大火で本堂を焼失し、同14年(1881年)この地に移転した。その後、幾度か大火のため建物を焼失したが、昭和4年(1929年)現在の鉄筋コンクリート寺院が完成した。

土方歳三と新選組隊士の供養碑

 土方歳三(新選組副長)は、榎本軍に加わり、函館で戦死した。その場所は一本木(若松町)、鶴岡町、栄国橋(十字街)など諸説があるが、土方ゆかりの東京都日野市金剛寺の過去帳には、函館称名寺に供養碑を建てた、と記してある。
 称名寺は、明治期の大火で3回も焼けて碑は現存しないため、昭和48年有志が現在の碑を建立した。
 他の4名は新選組隊士で、称名寺墓地に墓碑があったが、昭和29年の台風で壊されたため、この碑に名を刻んだ。

     
高田屋嘉兵衛一族の墓

 高田屋嘉兵衛は、明治6年(1769年)淡路島に生まれ、廻船を業とし、寛政10年(1798年)箱館大町に支店を設けた。
 以来、弟金兵衛と力を合わせ、千島エトロフの開発と共に巨富をもって箱館の殖産興業に多大な業績を残した。
 日露両国間の問題解決に努力したのも有名で、その顕彰碑は観音堂前にある。郷里で没したから墓は淡路にもあるが、金兵衛の系統が函館に住んだので、称名寺にも墓が建てられた。

アクセス 函館市船見町18-14
実行寺(日向内記招魂碑・諏訪部五郎墓・諏訪常吉墓)
     
 実行寺は、明暦元年(1655年)、山ノ上町(現弥生町)で清寛という僧が草庵を結んだのが始まりで、元禄3年(1690年)松前の日蓮宗法華寺の末寺となったが、実行寺と称するようになったのはいつ頃からか明らかではない。(明治17年山梨県身延山久遠寺の末寺に編入。)正徳4年(1714年)、富岡町(現弥生町)に移転し、明治12年(1879年)の大火後、同14年(1881年)にこの地に移った。その後も幾度か大火に見まわれ、同43年(1910年)現在の建物が完成した。実行寺は、安政元年(1854年)ペリーが来航したとき写真班の宿舎にあてられ、同5年(1858年)にはロシア領事館にも利用された。また、明治2年(1869年)箱館戦争終結後、旧幕府軍戦死者の遺体が市中に放置されたままになっていたとき、住職が侠客柳川熊吉と相談して、寺に葬ったという美談も残されている。
アクセス 函館市船見町18-18
咬菜園跡
 安政4年(1857年)名主で慈善家として知られた堺屋新三郎が、箱館奉行から1140余坪(約3770u)の土地の払い下げを受けてここに庵を作り、各地の名花、名木を移植したので四季折々の美しい花が咲き乱れ、当時の住民は箱館第一の名園として親しんだ。
 咬菜とは粗食のことで、五稜郭設計監督の蘭学者、武田斐三郎が名付親である。明治2年(1869年)箱館戦争時、追討令が下り、新政府軍艦が品川を出港したとの報に接した榎本軍(旧幕府脱走軍)総裁榎本武揚は同年3月14日幹部6人と共に、今宵最後と一夜の清遊をこの咬菜園で試みた。
 箱館奉行並中鳥三郎助は、俳人としても知られ、数多くの秀作があるが、「ほととぎす われも血を吐く思い哉」「われもまた 死土で呼ばれん白牡丹」の辞世の句などはこの時残したものである。
 同年5月16日、三郎助は五稜郭の前線基地千代ケ岡陣屋(現中島町)で最後まで降伏を拒み、長男恒太郎(22歳)次男英次郎(19歳)ともども壮烈な戦死を遂げた。
アクセス 函館市船見町4 弥生坂をのぼり、タオコートの先左手にある
己巳役海戦戦死碑・箱館府在住隊慰霊碑
          
 ここは、明治2年(1869年)の箱館戦争で戦死した新政府海軍慰霊の墓所である。
 同年4月、討伐体制を整えた新政府軍は、榎本軍(旧幕府脱走軍)に反撃を開始、同年5月11日箱館湾海戦で新政府軍艦「朝陽」は、榎木軍艦「蟠龍」の砲弾を受けて沈没した。
 この石碑には、朝陽艦副艦長夏秋又之助以下51名、同乗の箱館府兵ら合わせて70人の死者名と甲鉄、朝陽、春日、飛龍など新政府軍艦名が刻まれている。
 明治3年(1873年)に建立された。碑の右は、「高田屋の亀石」といって、亨和元年(1801年)、高田屋嘉兵衛全盛のころ、現宝来町に「高田屋御殿」と呼ばれた豪勢な邸宅を構え、のち庭園に据えられた巨右の一部である。
 嘉兵衛は、貧民救済の自的をかねて住吉浜の海中にあった2畳敷ほどの巨石を多数の人を動員して引き揚げさせたところ亀に似ていたので亀石と呼ばれた。
 護国神社(青柳町)にある「海陸軍戦死人名」碑と「招魂場」碑も同じ亀石を割って作られたものであるが、いずれも箱館戦争新政府軍死者を祀った記念碑である。
アクセス 函館市船見町 咬菜園跡を越えてのぼり続けると右手に看板が見えるのでそれに従って右折するとある。ただ急斜面と道が狭いので車で行く人は細心の注意を。
旧称名寺跡(弥生小学校)
 明治15年(1882)開校した旧市内唯一の同一校名をもつ学校である。現校舎は昭和13年(1938)の竣工である.途中大正13年(1924)7月から、昭和13年12月まで、男子校であった。女子は近くの商船学校跡に移り、弥生女子小学校と呼んでいた。この付近は、明治12年(1379)12月の大火まで寺町と呼ばれ、弥生小の東部分に浄玄寺(現真宗大谷派函館別院(単に東別院とも言う。)西部部分に称名寺、坂をこえた現道営高層住宅付近に実行寺が並んでいた。

アクセス 函館市弥生町4
ペリー会見の地
 安政元年(1854年)3月、アメリカ海軍提督M.C.ペリーは、幕府との間に日米和親条約を締結し、その直後、5隻の艦船を引きつれて箱館に入港した。ペリーは、この地にあった有力商人山田屋寿兵衛宅で、松前藩家老松前勘解由らと会見し、市中の調査や、港内測量などを行って箱館を去った。 この図は、ペリー著「日本遠征記」の挿し絵のなかの一つで、会見の模様を描いたものである。
アクセス 函館市弁天町15
沖の口役所跡・函館郵便役所跡
     
 江戸時代、松前藩は藩財政を支える施策の一つとして、福山(現松前)に船舶、積荷、旅人を検査して規定の税金を徴収する「沖之口番所」を創設した。その後江差と箱館(18世紀のはじめ頃)にも設けられ、文政4(1821)年沖之口役所と改められた。 明治2(1869)年に「海官所」、さらに翌年に「海関所」と改称された。同8年に北海道諸産物出港規則が制定され、出港税徴収が開始されると、「船改所」と改称され、その徴収業務を担当したが、同20年、出港税の廃止とともに船改所も閉鎖された。 なお、明治18年に船改所構内に函館水上警察署が置かれたが、船改所閉鎖後も存続し、大正15(1926)年に建てられた建物が現存している。(水上警察署は昭和27年に西警察署と改称し、昭和59年に新築移転した。)
アクセス 函館市大町13
土方歳三滞在地
土方歳三が箱館滞在中、この近辺の旅館に泊まったといわれている。
アクセス 市電大町停留所付近
新島襄海外渡航記念碑
 新島襄は、新知識を海外に求め、吉田松蔭の海外渡航の失敗を考慮し、渡航地を蝦夷地に選びました。 元治元年(1864年)江戸から来て、ニコライ司教(ハリストス正教会2代主教)に日本語を教えたりなどして脱出の機会を待っていたが、同年6月14日(新暦7月17日)深夜、福士成豊(日本最初の函館測候所解説者)の助力により、この地から国禁を犯して海外渡航に成功しました。 上海経由で渡米した新島襄は、修学10年の後、明治7年(1874年)帰国し、翌8年京都において同志社大学の前身である同志社英学校を創立しました。 この碑にある「男児志を決して千里を馳す自ら辛苦をなめてあに家を思わんや 却って笑う春風雨を吹くの夜 枕頭なお夢む故園の花」の漢詩は、新島襄の自作自筆によるもので元治2年(1865年)香港での作です。 渡航前の名前は新島七五三太でしたが航海中に船長から「ジョセフ」名をもらい、略して「襄」の字をあてました。 明治23年(1890年)48歳で没。
アクセス 函館市大町11 相馬倉庫と公海食品の間
箱館病院跡・ペリー銅像・諸術調所跡
函館病院跡

 安政6年(1859)開港と同時にロシア領事と同行の医師がロシア病院(万延元年 1860)を建てるという話に刺激され、栗本端見(匏庵 鋤雲 安政5年奉行所頭取として来函)と塩田順庵(安政3年来函)が中心となって市中の医師が協議して日本医師の病院を作ったのが文久元年(1861)姿見坂上(弥生8付近)の箱館医学所である。これは医師の学間所と同時に、ー般町民はもちろん、娼技の性病、貧民の施療もし、箱館戦争の時は榎本軍の病院となり、高松凌雲らが活躍した。
 明治2年(1869)開拓使の官立となった後、明治4年愛宕町(船見2)に移転、明治11年、12月焼失。明治14年(1881)現在地に移転、その後、県立(1884)―庁立(1886)―公立(1889)―区立(1899)となったが、明治33年焼失、豊川病院に移った後、明治38年再興、明治40年焼失、明治42年再興とくりかえしたが大正11年(1878)外来診療所ができ、市立となって今日まで続いている。
 しかし、2000年10月港町に移転した為に、以後は函館病院跡地となり、西部での役割は、失われる。

ペリー提督来航記念碑

 日本と和親条約を締結したアメリカ海軍提督M.C.ペリーは、1854年(安政元年)5月17日、開港される箱館港を下検分するため、5隻の艦船を率いて来航した。
 滞在中には、箱館湾の海図を作成したほか、銀板写真術(ダゲレオタイプ)の初公開、西洋音楽の吹奏などを行い、当時の人々の驚きの様子が記録として残っている。
 このペリー来航が契機となり、蝦夷地(北海道)を統治する箱館奉行所の移転先として五稜郭が築造されることになったほか、開港場として欧米文化の影響を受け、本市が国際観光都市として発展する礎となった。

諸術調所跡

 諸術調所跡とは、箱館奉行所の研究教育施設で、蝦夷地の開拓と警備に必要な人材育成を目指して、安政3年(1856年)に設立された。教授は五稜郭設計で有名な武田斐三郎で、蘭学はもとより、測量・航海・造船・砲術・築城・化学などを教え、亀田丸でロシアまで操縦航海するなど実践を重んじた教育を行った。元治元年(1864年)、斐三郎が江戸開成所(現・東京大学の前身)の教授に転出するまで、門人多くを教育し、前島密(郵便制度創始者)、井上勝(鉄道制度創設者)など明治日本の動脈を作った優秀な門下生を輩出した。 同志社の創設者「新島襄」が箱館からアメリカヘ密航したのも、諸術調所に入るために箱館にやってきたのに、斐三郎が江戸へ出ていってしまっていたための行動であったとも言われている。 内外共に多難な幕末期、開明的で進取積極の精神に満ちた人々と学舎があって、その成果を全国に及ぼした事実は、市民の誇りとするところであり、その魂は常に新しい時代の開拓のために生き続けることであろう。

アクセス 函館市弥生町2 基坂沿い
箱館奉行所跡
     
 アメリカのペリー提督の来航後、危機を感じた幕府は五稜郭の建設に着手し、箱館奉行所は五稜郭に移設された。現在は元町公園の入口近くに箱館奉行所跡の碑が人知れず残されている。
アクセス 元町公園入口に木碑がある。
南部藩陣屋跡
南部藩陣屋跡

 幕府が蝦夷地(北海道)を初めて直轄した時代(1799年〜1821年)、幕府の命により南部藩が蝦夷地を警備するための陣屋跡で、敷地は、当初16、200uほどであったが、19、800u増して36、000u以上となった。 建物は極めて粗末で、ここには相当な人数が勤務し越冬していたが、病人がたくさん出た。(文化4年には342人勤務、うち150人越冬)後の幕領時代(1854年〜1867年)にもここを陣屋として再建し、約300人が勤務していた。 明治元年戊辰戦が東北に及び国元を守備する為、同年8月11日夜、イギリス人ブラキストンから雇入れた汽船に乗って箱館を引き揚げ、南部へ帰った。 この碑は昭和29年7月30日、岩手県南部会が建立した。

アクセス 函館市元町18 南部坂沿い NHK放送局
護国神社(新政府軍墓地) 函館招魂社
護国神社

 明治2(1869)年、箱館戦争が終わって、兵部省は新政府側の戦没者を慰霊するために、招魂場を造営した。境内に「招魂場」という大石があるのは、その時のものである。 同7年に招魂社となり、昭和14(1939)年に護国神社となった。 現在の社殿は昭和17年に完成したものである。 ここには、箱館戦争以降、西南の役、日清戦争から第二次世界大戦に至るまでの、戦没者の霊が祀られている。境内には新政府側戦没者の墓や慰霊碑などがある。

     
アクセス 函館市青柳町9 護国神社坂突き当たり
碧血碑・柳川熊吉顕彰碑
             
碧血碑

 函館山中腹(函館八幡宮付近)にある石碑。旧幕府脱走軍戦死者を弔うため明治8(1875)年に建立された。この碑は伊豆産の石を使い、東京霊岸島で造り、海路運搬されたもので、 「明治辰巳、実に此事有り、石を山上に立てて以て厥の志を表す」とのみ記され建立者名も記されていない。
 題字は、箱館戦争当時陸軍奉行であった大鳥圭介の筆と言われているが、定かではない。碧血とは、「義に殉じて流した志士の血は三年経つと碧に変わる」という中国の故事に倣ったものである。
 台座約4m、高さ約4mのオベリクス型の石碑で、明治2年(1869)5月函館市内で政府軍と、旧徳川家臣の戦いで戦死した旧徳川家臣の方々を葬った墓碑である。
 石材は伊豆産のもので、東京で刻み、海路函館に運び明治8年(1875)5月に建立したものである。
 戦いは明治2年5月18日五稜郭が落ち、政府軍は招魂祭をし、戦死者を葬ったのに対し、旧徳川家臣団の戦死体は手をつける人がいなかったのを、柳川熊吉が自分の子分を指揮して、現在の弥生小学校近くにあった実行寺や称名寺に合葬したのを、明治4年(1871)頃に現在地に改葬した。

柳川熊吉翁の碑

 柳川熊吉は、安政3(1856)年に江戸から来て請負業を営み、五稜郭築造工事の際には、労働者の供給に貢献した。 明治2(1869)年、箱館戦争が終結すると、敗れた旧幕府脱走軍の遺体は、「賊軍の慰霊を行ってはならない」との命令で、市中に放置されたままであった。新政府軍のこの処置に義憤を感じた熊吉は、実行寺の僧と一緒に遺体を集め同寺に葬ったが、その意気に感じた新政府軍の田島圭蔵の計らいで、熊吉は断罪を免れた。 明治4年.熊吉は函館山山腹に土地を購入して遺体を改葬し、同8年、旧幕府脱走軍の戦死者を慰霊する「碧血碑」を建てた。大正2(1913)年、熊吉88歳の米寿に際し、有志らはその義挙を伝えるため、ここに寿碑を建てた。

アクセス 函館市谷地頭町1 谷地頭団地を通り函館八幡宮を通り抜ける(入った道の隣の道をUターンするかんじで、妙心寺の前を通過するとほんの少しだけの広場がある。そこから階段を上がると見えてくる。いつもはその広場に車を置く。
高田屋嘉兵衛銅像・高田屋屋敷跡
高田屋嘉兵衛銅像

 この銅像は、嘉兵衛の功績を称えるとともに、箱館開港100年を記念して昭和33(1958)年に建てられた。制作著は函館出身の彫刻家、梁川剛一である。 嘉兵衛は明和6(1769)年に淡路島に生まれ、28歳のとき箱館に渡った。文政元(1818)年に故郷に帰るまで、箱館を基地として造船・海運業・漁場経営などを手がけ、国後島・択捉島の航路や漁場を開発し、函館発展の基礎を築き、大きな業績を残した。 さらに、ゴロヴニン事件という日露国家間の問題を、民間の立場ながら無事解決に導いたことでも有名である。この像は、文化10年(1813年)、ロシア軍艦ディアナ号が捕らわれていたゴロヴニン船長を引き取るため、箱館に入港した際に立ち会った時の嘉兵衛の姿である。右手に持つのが松前奉行からの諭書、左手に持つのは艦内で正装に着替えた際に脱いだ衣装であり、仙台平の袴に白足袋、麻裏草履を用い、帯刀している。

高田屋屋敷跡

 箱館の発展は、高田屋嘉兵衛によってその基礎が築かれたといっても過言ではない。 明和6年(1769年)兵庫県淡路島に生まれた嘉兵衛は、寛政8年(1796年)28歳のとき箱館に渡り、以来、文政元年(1818年)郷里に帰るまで、箱館を拠点にして回漕業や漁場経営などで巨額の富を得た。 嘉兵衛は、国後および択捉両島の漁場を開拓し、北洋漁業の先駆者として歴史に名をとどめたばかりでなく、公共事業や慈善事業に大きな功績を残した。 高田屋の全盛は、寛政13年(1801年)に嘉兵衛のあとを嗣いだ金兵衛(嘉兵衛の弟)が、幕府の許可を得てこの地域5万坪を拝借し、その一角に豪壮な邸宅を建てた頃である。その規模は、敷地面積で2町(約220m)四方もあり、邸内には山を築き、池を造り、また高価な石が置かれていた。 市内にはほかに高田屋嘉兵衛の銅像(宝来町)や、大町の高田屋本店跡(標柱)があり、船見町の称名寺には高田屋一族の墓や嘉兵衛顕彰碑がある。

アクセス函館市宝来町 護国神社からよく見える。護国神社坂を下ると道路の真ん中の緑地帯にある。
武蔵野楼跡
豊川稲荷神社

文久年間(1861〜1864)、付近の繁盛を願って有志が創立したもので、当時この付近は新築島と呼ばれていたが、この神社ができてから豊川町と称するようになった。 昭和9年の大火まで4回類焼しており、現在の神社は昭和15年に建てられたもので、当時とは向きが逆である。 古くから商売繁盛の神様として崇められ、魚市場や蓬莢町(現宝来町)見番芸妓一同が献納した石灯籠などが信者層を語っている。

この付近に箱館政府の高官が飲みに来た武蔵野楼があったといわれている。

アクセス 函館市豊川町13
土方歳三最期の地
土方歳三最期の地

 新撰組副長として京都の街に勇名をはせた土方歳三は鳥羽伏見の戦いの後新撰組を率いて各地を転戦して北上し、仙台で旧幕府海軍副総裁榎本武揚が指揮する脱走艦隊と合流した。
 明治元年(1868年)10月、蝦夷地(北海道)に上陸した榎本軍は、箱館を占拠して新政権を樹立、土方はその陸軍奉行並の要職についた。
 翌2年4月、新政府軍の総攻撃に榎本軍は各地で敗退したが、土方が守った二股口(現・大野町)だけは最後まで落ちなかった。
 しかし、同年5月11日、ついに箱館も政府軍の手に落ちた。土方は箱館奪回を目指し、50名の兵を率いて一本木(現・若松町)の関門を出て箱館の市中に向い、敢然と切り込んでいったが銃弾に当たって倒れ波乱に満ちた生涯を閉じた。時に35歳であった。

「たとひ身は 蝦夷地の島根に朽ちるとも 魂は東の 君やまもらん」

アクセス 函館市若松町34 総合福祉センター前の若松緑地
千代ヶ岡陣屋跡
千代ヶ岡陣屋跡

 文化5年(1808年)、幕府から蝦夷地(北海道)の警備を命じられた先代藩が、択捉などの出張陣屋の元陣屋として、現在の中島小学校付近から千代台公園野球場にかけての丘陵地帯に、東西約130m、南北約150mの土塁を築き陣屋を置いたのが最初である。 安政2年(1855年)には、幕府が津軽藩に対して、西は乙部から神威岬まで、東は箱館から恵山岬までの警備を命じたため、津軽藩は出張陣屋を寿都に設け、ここを元陣屋として受け持ったので、津軽陣屋、あるいは、このあたりの地名を取って千代ケ岡陣屋とも呼ばれた。 明治元年(1868年)10月、道南一帯を掌握した榎本武揚率いる旧幕府軍が、五稜郭を本拠に弁天台場や津軽藩が引き揚げて空塁になっていた千代ケ岡に兵を配置したが、明治2年5月16日、新政府軍の総攻撃により守将中島三郎助らは壮烈な最期を遂げ、この陣屋は陥落した。

アクセス 函館市千代台町 千代台公園の陸上競技場がある陣屋通り沿いに看板がある
中島三郎助父子最後之地
          
中島三郎助父子最期之地

中島三郎助は浦賀奉行配下の役人であったが、安政2(1855)年に幕府が創設した長崎海軍伝習所の第一期生となり、3年後には軍艦操練所教授方となった。 維新後、明治元(1868)年10月、彼は榎本武揚と行動を共にし、軍艦8隻を率いて北海道に来た。箱館戦争では、五稜郭の前線基地であった千代ケ岡陣屋の隊長として、浦賀時代の仲間とともに守備についた。 新政府軍は箱館を制圧すると、降伏勧告をしたが、中島はそれを謝絶して戦闘を続け、5月16日に長男恒太郎や次男英次郎と共に戦死した。「ほととぎす われも血を吐く 思い哉」という辞世の句を残した。 昭和6(1931)年に、中島父子を記念して千代ケ岡陣屋のあったゆかりの地が中島町と名付けられた。

アクセス 函館市中島町 中島町38の交差点に上記の石碑と案内看板がある
亀田八幡宮
     
亀田八幡宮

社伝によれば、明徳元(1390)年、河野加賀守森幸が越前敦賀(福井県〉の気比神宮から、祭神の八幡大神(応神天皇)を勧請したのが始まりという。本殿と拝殿は慶長8(1603)年に建立されたと伝えられている。 17世紀に入って亀田川河口は、このあたり一帯の中心地となり、神社・仏閣が整備された。亀田八幡宮には、延宝2(1674)年の棟札が現存している。 現在の社殿は昭和39(1954)年に造られたものである。それまであった社殿は現在でも神輿殿として残されているが、文久3(1863)年に改築された市内で最も古い木造建築である。箱館戦争時に受けたという銃弾の跡が残っている。 また、第一の鳥居は、弘化4(1874)年に松前藩最後の箱館奉行となった工藤茂五郎が奉納したものである。榎本武揚ら旧幕府脱走軍と陸軍参謀黒田率いる新政府軍との間で、明治2(1869)年5月18日に降伏式が行われた場所といわれている。

アクセス 函館市八幡町3
五稜郭
      
      
      
箱館戦争と特別史跡五稜郭跡 函館市観光標識

 江戸湾から軍艦8隻と共に脱走した榎本武揚率いる旧幕府脱走軍が箱館に入り、五稜郭を占拠したのは、明治元年(1868年)10月。新政府軍との戦いに敗れ、降伏したのはわずか7ヶ月後のことでした。五稜郭は新政府軍に明け渡され、戊辰戦争最後の戦いとなった箱館戦争の終結とともに、長い間続いた封建制度がここで終わりを告げました。日本の新しい時代が始まったのです。  特別史跡 五稜郭跡(五稜郭公園)   箱館奉行が、蝦夷地(北海道)を統治するために、役所を新築する敷地として整備した洋式の城郭です。5つの突角をもつ星型であるところから五稜郭と呼ばれています。蘭学者武田斐三郎の設計で安政4年(1857年)着工。元治元年(1864年)完成。昭和27年3月、国の特別史跡に指定されました。  榎本武揚   天保7年〜明治41年(1836年〜1908年)。江戸(東京都)生。オランダ留学後、幕府海軍副総裁。慶応4年(1868年)旧幕府脱走軍を率いて品川沖を出発し、五稜郭を占拠しました。  土方歳三  天保6年〜明治2年(1835年〜1869年)。武蔵国(東京都)生。近藤勇らとともに新撰組を結成。仙台で榎本等と合流し、脱走軍では陸軍奉行並となります。明治2年5月11日箱館の一本木関門(現若松町)付近で戦死。  箱館奉行所   当初、箱館奉行所は函館山山麓にありましたが、開港後、内陸の亀田(現五稜郭町)に五稜郭を築き奉行所を移転させました。

アクセス 函館市五稜郭町
五稜郭タワー
     
 五稜郭タワーは、五稜郭築城100年を記念して1964(昭和39)年12月に旧タワー(高さ60m)が建造された。
 旧タワーは市民や観光客の目を通して、41年間に渡り親しまれてきたが、新タワー完成によりその使命を新タワーに託し、2006年6月に解体。
 2006年4月1日にオープンした新タワーは高さ107m。
 展望台から見る函館山や津軽海峡、五稜郭の大地に輝く星形の眺望。展望台には、五稜郭の歴史が学べる展示スペース「五稜郭歴史回廊」や強化ガラスの床で下が見える「シースルーフロア」、「売店」、「カフェスタンド」などがある。
アクセス 函館市五稜郭町
土方歳三銅像・箱館戦争供養塔
          
五稜郭タワー前に土方歳三の銅像と箱館戦争供養塔がある。
大円寺
     
     
大円寺

 大円寺は浄土宗称名寺の末寺で,享保7年(1722 年) の創設といわれ,寛保2年(1742 年) 称名寺から本尊阿弥陀如来の木像を移して,初めは無量庵と称し,大正9年(1920 年) 大円寺と改称しました。
 門前にある「無縁塚」は,安政4年(1857 年) に着工された五稜郭の築造工事のとき,けがや病気で死亡した人たちを供養する碑で,碑の裏面には建てられた年号「文久四年甲子春」(元治元年に改元)と,「棟梁喜三郎一同」と刻まれています。喜三郎とは,備前(岡山県)の石工井上喜三郎のことで,五稜郭や弁天台場の石垣造りを担当するなど,秀でた技術を持つ石工として知られていました。
 寺院の墓地には,最後の箱館奉行,杉浦誠の娘の墓や五稜郭が舞台となった箱館戦争で戦死した新政府軍と旧幕府脱走軍の兵士の墓があるなど,幕末から明治にかけての箱館の歴史が刻まれている寺院です。

アクセス 函館市神山3丁目4-1
権現台場跡・土塁跡
     
旧東照宮と権現台場跡

 東照宮は、元治元年(1864年)五稜郭が完成した時、その鬼門(東北)の守護神とするため、日光東照宮から分霊奉造を受けた日高様似の等じゅ院から東照大権現を分霊して、上山村(現神山町)に建てたのが始まりである。 明治元年(1868年)五稜郭を占拠した旧幕府脱走軍は翌2年五稜郭北面守備のため四稜郭を急造、さらに五稜郭との重要な結節点にあたる東照宮に砲台(権現台場といわれている。)を設けた。しかし、同年この砲台は新政府軍の攻撃を受け、東照宮も社殿も消失した。 東照官は、その後、箱館の大祐庵(現在の青柳町天祐寺)などに転々としたが、明治12年(1879年)宝来町に移り、平成3年(1990年)に陣川町に移転した。 この大鳥居は、五稜郭や弁天台場の石垣造りを担当した石工井上喜三郎の作で,箱館戦争の砲火にも壊されずこの地に残った。 

アクセス 函館市神山3-19 神山神社付近
四稜郭
     
     
四稜郭

 五稜郭から北東側約3km、三方海の函館の街が遠望できる丘陵地帯にある四稜郭は、五稜郭への背後からの攻撃に備えるため、明治2(1869)年4月、 旧幕府脱走軍兵士約200名と村民約100名により数週間のうちに築かれたものである。
 設計者は大鳥圭介といわれている。
 形が蝶の羽を広げたように見える四稜の土塁造りであることから、四稜郭と呼ばれるようになったが、築造当時は新五稜郭とも呼ばれていた。
 国史跡指定(昭和9年1月)。一時耕作地となったり、かなり形が崩れていたが、昭和48年(1973)年に復元された。

アクセス 函館市陣川町
土方歳三函館記念館
〒040-0022 函館市日乃出町25-4 
【TEL】0138-56-2801 
【FAX】0138-56-2803

【営業時間】 9:00〜18:00 年中無休

いろんなグッズがあります。刀剣の展示はすごい。
ここから見る海はきれいですよ。

川汲峠
 鷲の木に上陸した土方歳三は、額兵隊、陸軍隊500人を指揮し、砂原、南茅部方面から五稜郭へ向かったが、この途中、川汲峠で箱館府兵隊と衝突し、激しい戦いとなった。戦跡として慰霊碑が建立されている。

アクセス 函館市川汲温泉 川汲峠近くの台場山に砲台跡が残っている
峠下古戦場跡(戊辰役勃発之地・新政府軍墓地)
     
明治元年10月23日午前2時頃新政府軍は旧幕府軍の宿舎を襲ったが、大鳥圭介率いる750名と遭遇し、新政府軍を撃退した。ここには戊辰役勃発之地の石碑があるが、夏場に行くと草に埋もれているので注意。新政府軍墓地には5基の墓石がある。

峠下古戦場跡碑から山に登ると、峠下台場跡がある。

アクセス 亀田郡七飯町峠下470付近 国道5号線 峠下小学校の先七重発電所付近にある。ここまで来るとわかる。
宝琳寺
新政府軍墓地

 宝琳寺墓地の入口入ってすぐに、案内板があり「箱館戦争戦死者墓」の案内と地図が書いてあるので迷うことは無い。
 柵内の墓は、石岡孫弥、葛西文三郎、備後福山藩士赤松岩太郎、橘高助五郎、北上直治、鮫島辰蔵、中村幸六郎の5基。

アクセス 亀田郡七飯町字桜町529 
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