大垣市−東赤坂

曽根城跡

 この地は天正のはじめ、春日局の父、斎藤利三が、城主稲葉一鉄の重臣として住んだところである。
 春日局は稲葉一鉄の姪、お安と斎藤利三との間に生まれた子であり、のちに一鉄の子、重通の養女となって稲葉正成に嫁した。
 曽根城の創築年代は不明だが西美濃三人衆の一人として活躍した稲葉一鉄が永禄10年(1567)織田信長に仕え、5万石を領したという。
 その後、この城は一鉄の子、貞通と孫の典通を経て、天正16年(1588)から西尾光教が在城した。
 光教は関ヶ原合戦(1600)に西軍の守備する大垣城を攻略する等の戦功をたて戦後揖斐城に移り、曽根城は廃城になった。
 一鉄の母の菩提寺である華渓寺も享保19年(1734)に本丸跡に移転した。
 なお、華渓寺所蔵の曽根古城跡図の中央部に「斎藤内蔵佐」と利三の屋敷が記されているから春日局は、ここで生まれたのではないかといわれている。

アクセス→岐阜県大垣市曽根町1-772-1
梁川星巌邸跡
 美濃国安八郡曽根村(現在の岐阜県大垣市曽根町)の郷士の子に生まれる。文化5年(1808)に山本北山の弟子となり、文政3年(1820)に女流漢詩人・紅蘭と結婚。紅蘭とともに全国を周遊し、江戸に戻ると玉池吟社を結成した。
 梅田雲浜・頼三樹三郎・吉田松陰・橋本左内らと交流があったため、安政の大獄の捕縛対象者となったが、その直前(大量逮捕開始の3日前といわれる)にコレラにより死亡。星巖の死に様は、詩人であることに因んで、「死に(詩に)上手」と評された。妻・紅蘭は捕らえられて尋問を受けるが、翌安政6年(1859)に釈放された。
アクセス→曽根公園に向かう道にある
華渓寺(梁川星巌記念館・庚申像)
 華渓寺は、天正4年(1576)に曽根城主稲葉一鉄が母の菩提を弔うため創建された。初めは大垣輪中堤の東側にあったが、江戸時代中ごろに、既に廃城となっていた曽根城本丸跡へ移転し、現在に至っている。境内には、幕末の詩人梁川星巌ゆかりの品々を展示する星巌記念館がある。通常は鍵がかかっているが、寺の方にお願いすると快く鍵を開けてくれて中の史料を拝見することができた。

 庚申塚は寛政12年(1800)梁川星巌が両親を亡くした12歳のおり、曽根村の辻に祀った石像。

アクセス→岐阜県大垣市曽根町1丁目772-1
曽根公園(梁川星巌・紅蘭像)
          
アクセス→華渓寺裏の曽根公園にある
紅蘭女史生誕之地
 梁川紅蘭は文化元年3月15日(1804)−明治12年(1879)3月29日
 名は景婉。字は道華。紅蘭は号。美濃国安八郡生まれ。
 17歳で同郷の従兄・梁川星巌と結婚。夫とともに漢詩人として活躍する。勤王の志士とも接触し、『安政の大獄』では星巌の病没により代わりに幕府に拘禁されたが屈しなかった。
アクセス→たしか梁川星巌記念館近くだったと思います。学校前に石碑がありました。
小簾公園(和宮遺跡)
          
文久元年(1861)、皇女和宮が中仙道を江戸へ御降嫁の折、呂久川を御座船でお渡りになったと伝えられる。
和宮はこの地で対岸の馬淵孫右衛門の庭の美しい紅葉をみて、
 「落ちてゆく 身と知りながらもみじばの 人なつかしくこがれこそすれ」
と詠まれた。現在は、和宮遺跡としてこの馬淵家の庭を「小簾公園」として昭和4年に開園し、歌碑などが建っている。毎年、春と秋には祭礼が行われている。
アクセス→瑞穂市呂及2 鷺田橋南側
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