岐阜市

岐阜城
          

 金華山山頂に最初に砦が築かれたのは建仁年間(1201-04)、鎌倉幕府執事の二階堂行政によるといわれている。その後、美濃の守護土岐氏の筆頭家臣斎藤氏が居城とするものの、下克上により斎藤道三の手に。1567年には道三の孫である龍興を倒した織田信長が岐阜城を手に入れ、この地方一帯を平定。名をそれまでの稲葉山城から岐阜城へ改名し、後に安土城が建設されるまでの10年ほどの間、天下統一の拠点となった。
 しかし1600年、関ヶ原の合戦の前哨戦で、信長の孫、秀信が西軍に味方したため東軍に攻め入られ落城。翌年岐阜城は廃城となり天守閣、櫓などは加納城に移された。
 現在の城は昭和31年に鉄筋コンクリート造り、3層4階建てとして復興された。平成9年には大改修が行われた。城内は史料館になっている。
 写真右は若き日の織田信長石像です。躍動感あふれる像。

板垣退助像
 戊辰戦争で総督府参謀をつとめる。明治4年新政府の参議、同6年征韓論をめぐって大久保利通らと対立し、西郷隆盛らとともに辞職。翌年1月民選議院設立建白書を提出。同年4月高知に立志社を創立して自由民権運動を指導した。14年自由党を結成して総理。翌15年4月6日遊説途中岐阜の中教院で刺客に刺され「板垣死すとも自由は死せず」という有名な言葉を残した。24年再結成された自由党の総理。29年第2次伊藤内閣の内相。31年大隈重信と隈板内閣をつくり、内相。伯爵。33年政界を引退。
板垣退助君遭難碑
 明治15年4月6日午後1時、時の自由党総理板垣退助が中教院にて演説を行う参会者百余名夕刻板垣総理すべてを終え玄関から数歩出るや「国賊」と叫んで相原しょうけいが総理の胸を刺す。
 総理「板垣死すとも自由は死せず」と有名な言葉を残したのである。
 即ち板垣総理遭難の地である。

明治天皇銅像
明治大帝
明治天皇は御名を睦仁むつひと、御幼稱は祐宮と申し、孝明天皇の第二皇子として、嘉永5年9月22日(陽暦11月3日)京都御所朔平門外の権大納言中山忠能邸内御産所に於て誕生せられた。
御生母は忠能の女、従一位勲一等中山慶子である。
萬延元年7月10日准后夙子(後の英照皇太后)の御子として儲君に治定せられ、次いで9月28日親王宣下を受けられ、慶應2年12月御父天皇が崩御されるや、翌3年正月9日践祚せられた。
時に御年16である。
翌4年8月27日即位の禮を擧げられ、同年9月8日明治と改元あり、御在位46年に亘られたが、明治45年7月30日御年61を以て崩御せられた。
翌8月25日御追號を定めて明治天皇と稱し奉り、9月15日御遺旨によって、京都府紀伊郡堀内村大字堀内字古城山(京都市伏見區桃山町古城山)に斂葬し奉った。
御陵名は伏見桃山陵と申上げる。
「御資性英武厳明にあらせられ、而して善く侍補耳に逆ふの諫を嘉納し給ふ、是れ眞に寛仁大度の君徳に適はせ給ひて大舜太宗に揆を同うし給うなり」とは侍講元田永孚が納諫の御盛徳を稱揚し奉った語である。

御製 述懐
 いにしへのふみ見るたびに思ふかな
         おのがをさむる國はいかにと
アクセス→JR岐阜駅または名鉄岐阜駅から岐阜バス(「長良・さぎ山まわり」「高富」行ほか長良橋経由路線)で約15分、「岐阜公園・歴史博物館前」下車、徒歩3分の岐阜公園内にある。
加納宿本陣(明治天皇休息所)
 本陣と脇本陣の他に、当分本陣跡があり、左側に明治天皇御小休所跡とあった。
 当分本陣とは、文久3年(1863)、参勤交代の制が緩和され、大名の妻子が自由帰国を許可された。その結果、中山道の通行が増え、本陣と脇本陣だけではさばききれなくなった。臨時に増やした本陣が当分本陣である。加納宿では、宮田家と三宅家が務めた。
アクセス→岐阜市加納桜通2-1
加納宿本陣(和宮休息所)

 民家(青木氏)の入口に、皇女和宮の歌碑と本陣跡の石碑が建っている。皇女和宮は、文久元年(1861)10月20日、京都を発ち、10月26日、加納本陣の松波籐右衛門宅に宿泊した。その時の姫君の心細い心情を詠まれた歌が宮内庁書陸部所蔵の「 静寛院御詠草 」に収められているが、その句を 姫街道開通400年記念行事 として石碑になっている。
 遠ざかる都としれば旅衣 一夜の宿も立(たと)うかりけり

アクセス→岐阜市加納桜通2-11
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