敦  賀

松原神社

 幕末の水戸藩では急進派と保守派が意見を対立させていた。急進派の天狗党は元治元年(1864)に尊王攘夷を掲げて3月に筑波山で挙兵。水戸藩や徳川幕府は討伐軍を向け天狗党と対立。天狗党は水戸藩家老武田耕雲斎を首領に中仙道を西進し朝廷に心情を訴えようと進軍を開始。各地で小競り合いを交えながら美濃から越前大野を経由して11月に新保に到着。頼みの綱としていた一橋慶喜が勅命によって浪士追討総督に任命され、各藩での迎撃体制も整ったことを知った天狗党は加賀藩に降伏。

 降伏した天狗党の面々は敦賀の鰊倉に幽閉され幕府によって過酷な尋問をされた。その結果、353名は松原で処刑斬首、追放188名、流罪137名、水戸送致128名、幼少につき仏門11名が入れられた。

 慶応3年に敦賀の修験行壽院が神祇白川家の許可を得て諸士の霊を祀り、水戸人根本弥七郎が明治7年に墓地付近に小祠創建して松原神社と呼称。大正4年に現在地に遷座。処刑者・戦死者・病死者411柱を祀る。

アクセス 敦賀市松原町
鰊倉(水戸烈士記念館)
加賀藩に降伏した天狗党は市内の三か寺に収容されていた。加賀藩軍監永原甚七郎は、事細かに天狗党に気遣う。これは天狗党の大義や毅然とした態度に感銘してである。

食料、米200俵、漬け物10樽、酒2石。子ども達にはお菓子などを与えた。

慶應元年(1865)1月29日、幕府に引き渡されたからの天狗党はあまりにもひどい扱いを受ける。加賀藩は士道を以て接するよう幕府に懇願するが聞き入れられなかった。これに怒った加賀藩は天狗党警護を辞退した。

 水戸浪士823名が船町の鰊倉16棟にそれぞれ監禁された。この倉は移築されたもので、水戸の回天館にも移築されている。

 間口約6m、奥行き約20mの蔵1棟に約50名の人間が収容された計算になる。足枷を着けられ、衛生状態も悪く、栄養失調などで体調を崩し、823名のうち14名が病死したという。想像を絶する扱いである。

アクセス 松原神社内
水戸天狗党墓
松原公園内に築かれた方墳型の塚は墓碑15基が建てられており、天狗党こと、水戸浪士353名の人々がこの地に眠っている。
アクセス 敦賀市松島町2丁目
武田耕雲斎銅像・水戸烈士追悼碑
 1803年(享和3年) 水戸藩士・跡部正続の子として生まれ、跡部正房(跡部家の宗家)の養嗣子となった。武田信玄の末裔を称して武田姓に改めた。祖先が武田家滅亡時に主家を裏切った為、この家名を嫌ったことから藩主斉昭の許しを得て武田姓への復姓をしたという。戸田忠太夫、藤田東湖と並び水戸の三田と称される。
 徳川斉昭の藩主擁立に尽力した功績などから、1840年には参政に任じられ、水戸藩の藩政に参与した。しかし1844年、斉昭が幕府から隠居謹慎処分を命じられると、これに猛反対したため、耕雲斎も連座で謹慎となった。1849年、斉昭の復帰に伴って再び藩政に参与し、1856年には執政に任じられた。そして、斉昭の尊皇攘夷運動を支持し、斉昭の藩政を支えた。しかし1860年、斉昭が病死すると水戸藩内は混乱を極め、耕雲斎も藩政から遠ざけられた。耕雲斎は斉昭死後の混乱を収拾しようと各派閥の調整に当たったが、混乱は収まらなかったばかりか1864年には藤田小四郎(藤田東湖の四男)が天狗党を率いて挙兵してしまう。耕雲斎は小四郎に早まった行動であると諫言したが、小四郎は斉昭時代の功臣である耕雲斎に天狗党の首領になってくれるように要請する。耕雲斎ははじめ拒絶していたが、小四郎の熱望に負けて止む無く首領となった。天狗党の目的は、斉昭の子で当時は京都にいた徳川慶喜を新たな水戸藩主に据えることが目的であった。そして800名の将兵を率いて中山道を進軍したが、越前国新保で幕府軍の追討を受けて降伏した。そして、簡単な取調べを受けた後、小四郎と共に斬刑に処されたのである。享年63であった。その後、妻・2人の子・3人の孫も死罪に処された。
有栖川宮による水戸浪士への顕彰碑
アクセス 敦賀市松島町2丁目
来迎寺(処刑地)
天狗党墓の裏手にあり、この地で水戸浪士353名の処刑があった。

慶應元年2月2日、来迎寺を処刑場所と決め、彦根藩・小浜藩・福井藩に斬首の太刀を命じたが、福井藩はこれを拒絶。天狗党警護から退いた。

2月4日、武田耕雲斎藤田小四郎ら幹部24名が斬首。  2月6日から8日の間に再び取り調べが行われ、道中で戦をしたものは斬首、残りは流罪、追放となった。 2月15日 斬首134名。  2月16日 斬首103名。  2月19日 斬首76名。  2月23日 斬首16名。

アクセス 敦賀市松島町2丁目5-32
敦賀郷土資料館
昭和2年に竣工した大和田銀行本店の建物であった。昭和53年に民俗資料館として開館。平成5年には博物館に名称を変えた。天狗党ゆかりの史料が多数展示されている。
永覚寺(仮白洲)
慶應元年2月1日から永覚寺に仮白洲を設け取り調べを開始するが、形だけのもので、一つの尋問が終わるとただちに斬首宣告。この扱いに加賀藩は助命を求めるが聞き入れられなかった。幕府側の責任者は田沼意尊(田沼意次の子孫)
アクセス 敦賀市金ケ崎町2-31
永厳寺(少年兵11名預かり)
少年も多数含まれていたが、長男は斬首を言い渡されていたが、それはあまりにもむごいと永厳寺住職が仏門に入れるという名目で引き取り、後に水戸へ帰している。
アクセス 敦賀市金ケ崎町15-21
新保陣屋
元治元年(1864)12月11日、今庄からこの地へやってきた。天狗党が最後に構えた陣屋の跡である。武田耕雲斎はこの陣屋で2週間逗留した。この陣屋で加賀藩軍監永原甚七郎に天狗党追討の総指揮は徳川慶喜であると知らされる。京へ向かう大きな原動力となった徳川慶喜は自分たちを迎え撃つ総指揮官となっていたことに愕然とする。

慶喜への嘆願状を永原甚七郎に託すが、慶喜は受け取りを拒否。降伏状でないと受け取らないとのこと。

天狗党の面々と接するごとに彼らの大義や礼儀正しい姿に永原は感銘を受け、食料や馬餌などを差入れしている。

総攻撃が近づくことを永原より聞き、加賀藩の軍門に下るよう説得され、真摯な態度に降伏を決定。立ち退く際には新保村に200両を渡した。

陣屋の内部は耕雲斎が滞在した時の雰囲気が今も残されており市の文化財となっている。

アクセス 敦賀市新保
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