小  浜

小浜公園(梅田雲浜顕彰碑)
  
 碑面の「梅田雲浜先生之碑」は、生前吉田松陰を通じて雲浜と親交のあった山県有朋による筆文である。

 右の歌碑には「君が世を思ふ心の一すじにわが身ありとも思はざりけり」と雲浜の辞世の句が刻まれている。

 この公園内に雲浜銅像があったが、戦前の金属回収のため供出された。

アクセス 小浜市香取 小浜公園内
高成寺(中川淳庵碑)
 小浜藩医。元文4年(1739年)江戸で生まれた。杉田玄白とは同郷で親交があつく、4年の歳月をかけて中津藩医の前野良沢、杉田玄白らとともに、ほとんどオランダ語の読めない3人が試行錯誤の結果、解体新書(ターヘルアナトミア)を翻訳した。このエネルギーは素晴らしい。

 この顕彰碑は没後150年を記念して建立された。

アクセス 小浜公園の西側にある 小浜市青井1-11-1
小浜小学校(梅田雲浜石像)
遠敷小学校(梅田雲浜石像)
 この2体の石像は、小学校の正門脇に立てられている。小浜市では雲浜の功績を郷土の英雄として顕彰している。

 コース的には小浜小学校はこの流れで、遠敷小学校は最後の雲浜墓の後に、敦賀に移動するときに寄ればいい。

アクセス 小浜市小浜男山5 アクセス 小浜市遠敷72-17
中央公園(梅田雲浜銅像)
 かつて小浜公園にあったが、太平洋戦争の金属回収のため供出され、現在の像は2代目になる。

 最初の像は座像であったが、昭和40年に再建された2代目は、像高3.2m、台座4mの計7.2mある。

アクセス 小浜病院前の中央公園にある
杉田玄白顕彰碑
 小浜藩邸江戸屋敷で藩医であった杉田甫仙の子として享保18年(1733)に生まれた。8歳から13歳まで小浜で過ごしている。

 明和8年(1771年)、玄白38歳の時に、中川淳庵がオランダ商館院から借りたオランダ語医学書『ターヘル・アナトミア』をもって玄白のもとを訪れる。玄白はオランダ語の本文は読めなかったものの、図版の精密な解剖図に驚き、藩に相談してこれを購入する。偶然にも長崎から同じ医学書を持ち帰った前野良沢や、中川淳庵、桂川甫周らとともに小塚原刑場で死体の腑分けを実見し、解剖図の正確さに感嘆する。玄白らは『ターヘル・アナトミア』を和訳し、安永3年(1774年)に『解体新書』として刊行する。
 晩年には回想録として『蘭学事始』を執筆し、後に福沢諭吉により公刊される。

アクセス 小浜病院前の中央公園にある
杉田玄白銅像
アクセス 小浜病院の正門前に立つ 国道沿い
藩校順造館門
 安永3年(1774年)には、藩儒西依墨山によって藩校順造館を開講された。もとは小浜城の大手橋付近に建てられていたが、明治5年10月から小学校に、明治14年から大正15年まで郡役所として使用されていた。現在は文化財として若狭高校の正門となっている。

 梅田雲浜も順造館で学んでいます。

アクセス 小浜市千種1丁目6-13 若狭高校正門
伴信友生誕地
 安永2年(1773年)2月、小浜市竹原の山岸家に生まれた。
 天明7年(1787年)、15歳のときに江戸に行き、伴家の養子になり日本の歴史を研究。本居宣長の学風を慕って宣長没後の門弟となる。考証学は、科学的方法で国文・国史の考証に数多くの著書と業績を残している。享和6年(1801年)「若狭旧事考」を著すなど、江戸末期の国学者の大家として活躍した。
アクセス 小浜市千種1丁目6-13 若狭高校内 順造門(正門)を入って右にある
梅田雲浜生誕地
説明はにあります。
アクセス 小浜市千種2丁目 広峰神社北
小浜城跡
 北川と南川に挟まれた中州、東は両川をつなぐ堀。四面を外堀にした水で囲まれた海浜地に築かれた平地水城の小浜城は、市街地化と両川の河川拡張のため、その城域は削られ、現在は、本丸の天守台と石垣が残るのみとなっている。

 明治4年の大阪鎮台第一分営設営工事中の失火により、城郭建造物のほとんどが焼失してしまった。

 本丸周囲の内堀は住宅と水田と化し、小浜城が水城であったことを示す面影は失われてしまっている。また、残された本丸跡は、現在、酒井家小浜藩祖・酒井忠勝を祀る小浜神社の境内となっている。

アクセス 小浜市城内1丁目7-55 小浜神社横
松源寺(梅田雲浜墓)
 安政の大獄で病死した雲浜は東京の海禅寺に埋葬されたが、小浜市民の強い要請ににより、昭和45年9月14日、雲浜の命日に父母の眠る矢部家菩提寺・松厳寺に分骨された。
アクセス 小浜市北塩屋14-6
梅田雲浜 うめだ うんぴん  文化12−安政6(1815−1859)
 若狭小浜藩士、のち浪人。号の雲浜は小浜海岸を雲の浜とよんだことにもとづいている。江州大津の湖南塾、天保14年(1843)以後、京都にうつり小浜藩管理の望楠軒で講義。嘉永5年(1852)には藩政批判の海防策建白などによって藩籍を削られた。尊攘派志士として積極的にかかわり、安政元年(1854)には、ペリー再来の知らせに江戸に赴き、さらに水戸藩に入説、帰京後は福井藩にいたるなど結集につとめた。同年9月、プチャーチンの率いる露艦の回航をきき、かねてから盟約を結んでいた大和十津川郷士とともに大坂に走り、攘夷の具体化をはかる。京都における尊攘派の中心であったが、ことに中川宮の信頼があつく、同年昇殿をゆるされ、大きな影響力を行使した。安政4年幕府の日米通商条約調印に反対し、勅許阻止に成功。一橋慶喜の将軍就任を画策した。このため井伊直弼から、在京の梁川星巌、頼三樹三郎、池内大学とともに「悪謀の四天王」のひとりと目されるにいたった。安政5年9月、安政大獄の最初の逮捕者として捕えられ、江戸に護送された。翌安政6年9月、幽閉先の小倉藩主小笠原忠嘉の邸内において脚気で病没した。墓は遺体を葬った海禅寺(東京都台東区松が谷)と、遺髪を埋めた安祥院(京都市東山区五条坂)の2カ所にある。
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