〜なぜ但馬において生野義挙が起こったのか〜

 文久2年(1862年)の頃から但馬の幕府領の豪農層などの間で農兵の組立の必要性が囁かれるようになっていた。外国船が日本沿岸に出没する社会情勢の折、北辺沿岸の防備に備えるためでもあり、領内の不意にも備えるためである。また、生野の代官は但馬から播磨にかけて244ヶ村、石高64,716石余りを支配していたが、武備に関しては裸同然であり、代官の家臣に地役人6,70人程しかいなかった。

 こういう状況下で農兵組立を画策、実現の運動を進めていたのが、養父郡高田村の大庄屋中島太郎兵衛、弟の黒田与一郎、建屋村の北垣晋太郎(後の国道)、膳所藩浪士で養父市場明暗寺出張僧の本多素行らであった。しかし、この計画は容易に具体化されなかった。 

北垣国道
 その頃、京では伏見において、薩摩藩内による藩士同士による騒乱があった。文久2年4月に起こった寺田屋騒動である。この事件により藩邸の中に監禁されていた美玉三平という人物がいた。 彼は、今自刃するのは犬死にと薩摩藩を脱藩、昌平黌時代の友人であり、西条藩の郡奉行であった三浦五助の家にひと月ばかり匿れていた。

 話が少し外れますが、三浦五助という人物は西条藩から紀州藩に公用人として元治元年に転籍します。のちに龍馬の「いろは丸事件」や龍馬の死後に海援隊士と新撰組との間に起こった「天満屋事件」に登場するあの三浦休太郎という人物です。

天満屋騒動の碑

 さて、美玉三平はその後、江戸に三ヶ月ほど潜伏し、年が変わって文久3年2月に京に戻っている。

  一方、2月23日北垣晋太郎は浪士隊と共に入洛していた山岡鉄太郎、清川八郎と親戚である西村敬蔵邸で会見し、農兵組立ての建白を老中板倉勝静に提出を依頼していた。文久3年3月,京では依然薩摩藩の探索は厳重であったために美玉三平は但馬に潜伏し、湯島(城崎)の温泉宿田井屋鯰江(なまずえ)伝左衛門方に投宿した。この鯰江伝左衛門は北垣晋太郎と同じ青渓書院の池田草庵の徒であり、鯰江の紹介により、美玉三平は但馬の有志と会い、その後農兵組立に関与していくことになった。

山岡鉄太郎
 幕府側に農兵組立ての建議した北垣らに対して、今度は美玉三平が朝廷側に農兵組立ての勅許を拝するために北垣晋太郎を伴って7月下旬に上洛し、平野國臣や真木和泉に拝受方の斡旋を依頼した。それから、美玉は朝廷から農兵組立ての指令を拝受したあとに但馬に戻ることを約束し、北垣は8月13日に但馬に戻った。翌14日、生野及び久美浜代官所に幕府から農兵組立ての指令が下された。また、16日は朝廷から農兵組立ての指令も下りこの日から平野國臣は学習院出仕を仰せ使わされている。
平野国臣

 こういった経緯のなかで、生野には農兵の組織が誕生していくわけである。幕臣の立場で農兵組立ての運動をおこなった山岡鉄太郎も生野代官も時勢や代官所の武備の乏しさなどから、幕府は容易に許可を卸すものと見ていたようである。 またテーマである、なぜ生野において挙兵されたかであるが、上記の農兵の存在の他に銀山による幕府の経済要所の占領、京からも近く、山間部でしかも代官所は周囲を高い塀で囲まれ、銀山町周囲には播磨口、但馬口など7つの番所が配置されており、ある種、砦のような様相であり、天領を浪士に占拠される幕府の精神的ダメージと、諸藩への倒幕の起爆剤としての働きかけが期待された。

 また、この義挙は大和で挙兵した天誅組に呼応してのものだったが、代官所の占拠といい、山間部での挙兵といい、ともに共通するところが多い。

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