生野義挙とは・・・
 幕末の三大義挙には心惹かれてしまう。幕史研ではこの三大義挙に特に力を入れている。天誅組は、奈良の東吉野村や高取町、五條市が力を入れて、最近顕彰活動が始まっている。東吉野で、明治から顕彰活動がされている。東吉野に行くと村民の方々の心からの供養や顕彰には頭が下がる思いである。

 たしかに天誅組はある程度メジャーになってきたかもしれない。以前に比べればである。

 しかし、生野義挙はどうであろうか? たった4日間で決起から波陣してしまう彼らの行動は、幕末史に埋もれてしまい、幕末が好きな人でも知らない場合が多い。

 確かに生野義挙の顕彰活動は地元の郷土史家を中心にたくさんの史料が発掘され、生野義挙をまとめた冊子まで販売されている。

 あとは、幕史研の力で、生野でこのような義挙があったことを大いに世間に広めなければならない!! これが我々の使命なのかもしれない!!との錯覚で、このページで生野義挙の理念や行動記録、現存する史跡や、効率の良い史蹟調査コースを紹介したいと思います。生野義挙を一日も早く天誅組並みに広めていきたい!! と思います。

 但馬の地において、生野義挙がおこったのは文久3年(1863年)、明治維新のわずか4年前の出来事です。この年、攘夷祈願のため孝明天皇による大和行幸の勅許が下された。

 これに先駆けて、天皇の大和行幸の御親兵となるべく、前侍従中山忠光を主将に、土佐の吉村寅太郎ら39名の浪士が集結し、大和で兵を挙げます。これが天誅組の乱です。

 しかし、京都では政変が起こります。会津、薩摩のクーデターにより尊攘派公卿が一掃され、政権は公武合体派によるものとなり、天誅組は朝敵とされ諸藩から追討される形となった。

 この天誅組の挙兵に呼応し、10月11日但馬の生野において挙兵したのが生野義挙の始まりです。

 しかし、この挙兵はわずか3日で破陣する。但馬を逃れ、長州や因州に落ち延びたものは数名いましたが、ほとんどの志士たちは討死、または自刃し、捕縛されたものは京の六角獄に入れられ、翌年に起こった禁門の変の大火に乗じて獄内で処刑されました。

●なぜ但馬において生野義挙が起こったのか
●決起から波陣へ
 農兵組立ての御膳立てが整った但馬の地で、生野義挙いわゆる乱が勃発するのだが、ここからは日付を追いながら、彼らの足跡を辿ってみたい。
8月14日〜8月26日
9月1日〜9月29日
10月1日〜10日
10月11日
10月12日
10月13日
10月14日
10月15日〜23日
●史蹟紹介
生野義挙モデルコース
朝来市内
養父市
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