〜決起から破陣へ〜
◎文久3年8月14日 浪士39名、京都方広寺に集結する。
 攘夷祈願のため孝明天皇から大和行幸の勅許が下され、その先鋒として浪士たちが集結し、まず手始めに幕府の直轄地である大和五條をめざして京を出発し、伏見から淀川を下り堺へと向かった。また、この日に生野、久美浜両代官所に農兵組立ての公文が幕府より下された。
◎8月16日 美玉三平、朝廷に学習院に呼び召され、農兵組立ての命を授けられる。

 御沙汰書には「但馬の国の儀は賊衝にあたり、ことに京都より僅か三四十里の地方、急度兵備これあるべき候ところ、農民等忠孝の志あつくこれある趣きにつき、農兵の組立て、当今切迫の時勢につき、速やかに出来候ようこれあり度候。勿論、その功績により、急に沙汰及ぶべく候。帯刀の儀はさし許し候間、比段相心得、周旋いたすべく候事。   八月  参政   美玉三平え」とあった。また、平野國臣が公式に学習院出仕を命せられたのもこの日からであった。

 こうして、美玉による表向きの外警防備の手筈は整ったのである。

◎8月17日 平野國臣、五條へ向かう。
 天誅組は大和行幸に先駆けて進発したわけだが、三条実美は行幸前に兵を挙げるのは早計と平野國臣に天誅組鎮撫を命じて、五條へ向かわせた。
◎8月18日 8,18の政変
 京において政変がおきる。これまで尊攘派により表舞台から退かされていた会津、薩摩藩によるクーデターであり、朝議は一変し尊攘派公卿は失脚、長州藩もこの日から御所の警備を解任された。
◎8月19日 七卿落ち
 御所参内を禁止され、前日に妙法院に入った三条実美ら尊攘派七卿は会議の結果、長州へ落ちることなった。雨の西国街道を芥川宿、西宮宿を通り西下した。一方、この日に平野國臣は五條に着き天誅組に京の政変を告げ、また挙兵の中止を説くが聞き入られず、京へ戻ることとなった。
◎8月21日 美玉三平、但馬に入る。
 朝議一変で19日に七卿と同じく京を落ちた美玉三平はこの日に但馬に入り、本多素行と会い、養父市場で止宿した。
◎8月23日 美玉三平、天誅組大和挙兵を知る。
 21日に養父市場で止宿した美玉は、翌日能座村建屋(たきのや)の北垣晋太郎に会い、23日に湯島の鯰江伝左衛門方に止宿。このとき初めて天誅組の大和挙兵を知らされる。
◎8月24日 平野國臣、新撰組に襲われる。
 五條から帰京した平野は木屋町の山中成太郎宅を仮住まいにしていたが、ここを新撰組に踏み込まれていた。幸い留守であったのでこの時は難を逃れたが、24日には三条木屋町の古東領左衛門宅にいるところを襲撃された。このとき古東が平野を逃がし、自ら縛に就いた。
◎8月26日 平野國臣、但馬に走る。
 新撰組から難を逃れた平野は、阿波の浪士長曽我部太七郎を伴って、但馬に向かった。
◎9月1日 長州藩士野村和作、生野挙兵を提唱する。
 京に入った北垣晋太郎は長州藩士野村和作、因州の有志らと会見する。そのときに野村から天誅組に呼応し、生野で挙兵の提唱をされる。
◎9月2日 平野國臣、但馬に入る。
 但馬入りをした平野はまず、能座村の北垣晋太郎を訪ねるが、北垣は上京のために不在であった。その日はここで泊まることとし、翌日、円山川を下り、湯島の旅館三木屋片岡平八郎方で止宿した。
◎9月5日 第一回農兵組立て会議

 養父明神別当所普賢寺において、第一回目の農兵組立て会議が行われた。この会議の場所が普賢寺となったのは養父市場に居住し、代官とも交流のあった本多素行がこの農兵組立ての発起人の一人だったからである。美玉、北垣らの画策が功を奏し、生野代官も農兵に賛同したため、代官所からは小川愛之助、木村松三郎が出席した。

 また、会議には生野代官の呼びかけにより支配村の代表的な豪農や村役人24,5名が集まった。この会議では各村に2,3名の農兵周旋方が指名された。中には百姓に武芸の稽古をさせたところで何の役にもたたず、百姓の気性を荒立て、また、農業の妨げになるだけなどといった反対意見も出ていたが、当会議を前に生野代官川上猪太郎は農兵周旋方を有力な百姓に命じていたために、会議は一応のまとまりを見せる形となっていた。また、この会議が行われた日に美玉三平は湯島に平野が来ていることを知った。

 一方、京にいる北垣はこの日、長州の野村和作と会見し、「但馬の国は1年かけて農兵を訓練し、兵器を備え、明年秋ごろに隣国の有志と気脈を通じて挙兵すれば、近畿、中国を動かすことが出来る。この機に長州も大挙を発せられれば事は成就する。大和の天誅組は一時、楠公の赤阪城退去の例に習ってもらうのが得策である。」と京へ向かう前に美玉や但馬の同志と話あった意見を述べたが、これに対して野村は「久坂(玄瑞)、寺島(忠三郎)も兵庫から潜行して(七卿落ちから別れて)、今京に来ている。君が告げる意見書も同志らと拝見した。実に得策とは思うが、今日の勢は1日も早く大和の義挙を助けないといけない。長州人や諸藩の同志も行って、兵器なども供給して便宜をはかりたい。」と意見した。また、「平野國臣はその為に但馬に向かったので、あなたも急いで但馬に帰り、平野を助けて、大和の応援を謀ってくれ。」と告げられている。

◎9月8日 美玉三平、平野國臣と会見する。

 美玉は6日から7日にかけて高田村の中島太郎兵衛宅で平野の来訪を待っていたが、平野は現れず8日は中島宅が銀山役人の宿所となるため、田路彦衛門方に泊まり、平野を待つことにした。美玉の日記「渓間日乗」にはこう記されている。「昼飯も過ぎたる彦右衛門迎ひに参れり。(中略)夜入前 美肴を出したるは余り快からず。以後右の如くなるを戒む、飯を喫し過ぎたるに國臣来たれり、又、酒肴を出して夜半まで談じ 國臣も大いに欣びたり。(大略)大和五条の話を聞けり。」とある。

 翌日には中島宅に移り、農兵組立てについて考察した。

◎9月11日 美玉、平野養父明神に参拝する。
 8日に美玉と再開した平野は、農兵組立てについて談義し、10日には湯島に帰るはずであった幕吏が彼の止宿先でもある三木屋にまで探索に来ているとのことで、養父市場に留まることになった。11日には養父神社で祭礼があり、身辺は決して安全とはいえないが、平野は美玉、本多らと正午ごろに参拝に出かけ、二時ごろから境内で行われた相撲を観戦したという。
◎9月13日 北垣晋太郎、但馬に戻る。
 この日は第二回目の農兵組立て会議が行われる予定であったが、京より北垣が帰り竹田町の太田六衛門方に来ていたので、急遽会議は取りやめにし、平野、美玉、本多、中島が集まり、京の情勢の徴収をした。北垣は長州の野村和作が説いた大和義挙に呼応して兵を挙げることの必要を語った。
◎9月19日 第二回農兵組立て会議
 13日に予定されていた2回目の農兵組立て会議が、高田村の中島太郎兵衛宅で行われた。前回と同じく、生野代官所役人も参加し、今回において農兵組立ての意見はまとまり、会議は解散となった。表向きはそうみせかけ、役人が帰ったあと、用意されていた中島宅の別室でいよいよ挙兵の決行策を協議し、この会議には平野も参加した。農兵召集に関しては表向きの会議に代官所側が出席していたので問題はないであろう。会議の結果、10月10日を期して長州にいる七卿の一人を大将として、生野にて挙兵することに決まった。
◎9月20日 平野、長州に向かう。
 会議の翌日、早速平野は長州にいる七卿の中から一人を総帥として迎えるため、西下した。26日に広島に着き、後発の北垣晋太郎と合流し三田尻に向かった。
◎9月27日 吉村寅太郎戦死。
 大和の東吉野村で戦っていた天誅組は、24日土佐の那須信吾ら6人の決死隊が彦根藩の陣に切込みを駆けるうちに、主将中山忠光は鷲家口を脱出、天誅組三総裁の藤本鉄石、松本奎堂は25日紀州藩勢との戦いにより戦死、吉村寅太郎は27日に藤堂藩勢40人の銃手に囲まれて銃殺され、事実上天誅組は壊滅した。
◎9月28日 平野、北垣三田尻に到着。
 三田尻に到着した平野と北垣は、招賢閣において同藩筑前藩士の藤四郎、堀六郎、出石藩士多田弥太郎らと七卿に会見。但馬の情勢を報告し、出馬の懇請をした。
◎9月29日 進藤俊三郎、池内蔵太より天誅組破陣を聞かされる。
 軍需品仕入れのため京の止宿先花屋に泊まっていた進藤俊三郎、田中軍太郎、西村哲次郎は長州の野村和作、因州の松田正人、河田左久馬らと軍需品の調達に四条木屋町の具足屋大高又次郎の周旋で準備をしていたところに、鷲家口を脱出してきた池内蔵太(後の海援隊士)が訪ね、大和破陣の報告をした。これにより、一同は生野挙兵を断念し、その使者として進藤が播州に向かった。
◎10月1日 平野、世子毛利定広と謁見する。
 9月29日に三田尻で七卿と会見し但馬の情勢を聞いた毛利定広は山口で平野と会見した。平野は定広に謁し、入説したが時期尚早と賛同を得られなかった。
◎10月2日 沢卿三田尻を出立する。

 慎重論を唱える者もあれば、この際大挙東上するといった声もあり、長州藩内でも意見は分かれていた。また、天誅組のように兵を挙げ、各地に義兵を挙げることにより天下の形成を動かしていくという声もあった。

 平野、北垣は4日間三田尻に滞在していたが、論議はひとつにはまとまらなかったが七卿の中から沢宣嘉卿が総帥になることが決まり、沢卿のもとならば義兵を挙げようという声もあり、また七卿のもと三田尻に集まっていた諸方の士もいた。長州藩からは奇兵隊総督の一人、河上弥市(このあと南八郎と変名)が名乗りを上げた。河上が行くならと集まった中には豪商白石正一郎の弟、白石廉作もいた。生野に随行したのは、水戸藩から小河吉三郎、川又左一郎、関口泰次郎、前木鈷次郎、筑前藩から戸原卯橘、藤四郎、堀六郎、仙田淡三郎、出石藩から多田弥太郎、高橋甲太郎、他に田岡俊三郎(小松藩)、森源蔵(阿波藩)江上庄蔵(尾張)といった面々。

 午後8時頃に沢卿は招賢閣を抜け出し、三田尻港を出港した。

◎10月3日 沢卿一行、室津港に着く。
 二隻に分けた船は三田尻を出港。沢卿を乗せた船には平野をはじめとする諸方の志士たちと16名が、もう一隻の船には河上弥市を筆頭に長州藩の面々11名が乗った。沖に出た頃から雨が激しくなった。波も激しくなり風も強い。帆を降ろした二隻の船は一向に進まなかった。それでも明け方には上関まで辿りついたが、雨も風もますます激しくなったので、室津港に着いて船を降りた。
◎10月4日 沢卿一行、陸路を取り玖珂に着く。

 海路を断念した沢卿一行は室津港から陸路を取り、山路を急いで玖珂(岩国市玖珂)に着いた。

 そんな中、北垣晋太郎と戸原卯橘は室津から軽船を雇い、暴風雨の中を先行した。

◎10月5日 沢卿一行、陸路新湊に着く。
 まだ風雨が続くなか、岩国城下を通り新湊に着く。また、軽船で先行していた北垣と戸原は大島(山口県大島郡周防大島)に仮泊し、5日の朝に新湊に到着し一行と合流。また、新湊では長州の西村清太郎と因州の大村辰之助が加わり、29名となったが、ここより北垣が単身で先を急いだ。
◎10月6日 沢卿一行、海路を取る。
 新湊に着いてから天候も回復。室津で降りた船の回船を待ち、翌朝新湊を出港。芸備の沿岸を進んだ。
◎10月7日 北垣晋太郎、大和破陣を知る。

 先行していた北垣は、飾磨(兵庫県姫路市)に上陸し、夜半に新町(神崎郡福崎町)で京より戻って来た進藤俊太郎と落ち合った。進藤から大和破陣の報告と、長州の野村和作、因州の松田正人からの義挙の取止めの勧告を聞かされた。

 その後、北垣と進藤は二里ほど離れた屋形の旅籠三木屋で本多素行を訪ね、善後策を講じ、北垣は沢卿一行に事の詳細を伝えるべく、飾磨に折り返した。

◎10月8日 平野國臣、姫路で天誅組破陣を知る。

 沢卿一行の船は網干港(姫路市網干区)に入港した。ここで平野は藤四郎を伴って情報収集のために上陸した。市中を徘徊すると、天誅組大和破陣の噂を聞かされた。詳しい情報を知るために平野と藤は姫路藩の志士河合惣兵衛の徒、穂積某が室津(たつの市御津町室津)にいることを知り、穂積を訪ねてみたが、やはり市中の噂は本当であった。

 このあと、平野は沢卿一行に使いを回し、飾磨に向かうように伝えた。

◎10月9日 平野、北垣挙兵中止を説く。
 午後2時ごろ、網干港を出港し、午後6時ごろに沢卿一行は飾磨に上陸した。沢卿一行と合流した平野は旅籠に入り、食事が終わると一同に大和破陣の報告を一通りしたあと、大和破陣となった以上はこの度の義挙は取止めにしょうと意見を述べた。またその頃、先行していた北垣も一行のもとに駆けつけ、早速京にいる野村和作、松田正人らが説いた義挙取止めの勧告を伝えた。意見としては一旦、沢卿には因州で身を隠していただき、他の同志の方には大坂の長州藩屋敷に身を寄せておいていただこうといった内容であった。大方の者はこれらの意見に賛成であったが、長州藩河上弥市や彼に従う奇兵隊の面々、それに秋月藩士戸原卯橘ら少壮派は猛反対した。彼らは京大坂の同志がどう言おうとまず我々は倒幕の先鋒であって、三田尻を出たときから死ぬ覚悟できている。どのような状況であろうと、初志を貫くべきであると怒気をこめた。意見が対立したまま時が流れていったが、やがて沢卿は口を開き、各有志に進展を委ねようということになったので、この夜は河上、戸原ら少壮派の意見が通り、北上することに決議した。
◎10月10日 沢卿一行北上、仁豊野で本多素行中止を説く。

 沢卿一行は市川を船で北上し、姫路城下を過ぎて、仁豊野(姫路市仁豊野)の茶屋奥田屋で休息した。ここで本多も一行と合流し、沢卿への挨拶を終えると直ちに義挙中止説を唱えた。これに怒った河上、戸原ら少壮派は今更命乞いをするな、卑怯者、斬ってしまえと本田に詰め寄った。お互い刀を引き合わせかけたところ、沢卿が制止されたのでなんとかこの場はおさまった。

休息が終わると、少壮派は沢卿を擁して先に先行し、その日は屋形(神崎郡市川町)と辻川(神崎郡福崎町)に分宿することとなった。

◎10月11日 沢卿一行、生野に入る。

屋形村で合流した沢卿一行は生野街道を北上し、午後2時ごろに森垣村の延応寺に到着した。一行は京都の姉小路五郎丸とその主従であると言い、延応寺を休息所として利用した。この日のことをあらかじめ本多素行が住職に話をつけてはいたが、野袴を着け、長刀を銃砲を持った一行の威容に驚いた。 さっそく寺に乗り込み、やがて中島太郎兵衛、太田六右衛門ら地元勢や美玉三平らも駆けつけ、また生野代官所剣客だった伊藤龍太郎も門人15名ほどを引き連れてきたので総勢29名だった一行は、忽ち大人数となった。 

 午後3時、白石廉作、川又左一郎は本多素行を案内役として、沢卿の書状を持って生野代官所に代官所借用の願いに赴かせた。天誅組の例に習い、まずは代官所を占拠し、ここを本陣とするのが狙いであるが、平野は穏便に代官所の占拠を行ないたいが為に、代官の顔見知りである本田に同行させ、まずは銀山入りの交渉で赴かせたのである。

 代官所では、代官の河上猪太郎が倉敷に出張中であったために交渉には元締の武井庄五郎が応接した。元来、銀山町内での宿泊、滞在は御法度とされていたが、武井は姉小路様(沢卿)の書状を拝見し、表立っての義軍の御逗留は役所の都合上申せませんが、通りがかりの御一泊と言うことならば、市中の御宿を手配いたしましょう。という返答をした。

 午後5時、沢卿一行は銀山猪々町の丹後屋太田次郎左衛門方に移った。午後8時ごろ丹後屋に武井が交渉に訪れた。藤本義芳雑記によると、武井庄五郎は丹後屋に訪れ、二階座敷に案内された。浪士の中から、平野國臣多田弥太郎、南八郎(河上弥市)、美玉三平、藤崎左馬蔵(木曽源太郎)、虚無僧素行(本多素行)らは武井と一通りの挨拶を済ませたあと、平野は武井にこう語った。

 「京都三条様始め、七卿様長州に御下りのうち、今回沢主水正様は京都へ容易ならざる感歎の筋があり、長州を出発され、我々は供として追従しましたが、諸国の吟味が厳しく、身を忍ぶ所もないので、しばらく匿っていただきたい。」それに対して武井は「高貴なお方を匿えと申されますが、当初のお話では一同の方々を通りがかりの御宿泊ということで約束いたしておりましたが、正義の士の方が匿ってくれとは話が違うと存じます。」と答えた。これには平野も閉口した。今度は美玉が「先だってよりの農兵組立ての儀、早速了承していただき、感謝しております。このことに関して、代官様始め、皆様方も我々と同じく正義の一味と推察いたしております。」と言うと、武井は「それは以ての外の事、当代官は言うに及ばず、我々も公儀の禄を食む者でございます。」と答えた。それに対して美玉は燈火の火を消し、暗闇になった部屋で一時沈黙になったが、やがて武井はポンポンと手を打ち「誰か灯かりを持って来い。」と呼びかけ、やがて浪士側の意見は通らぬまま交渉は終わってしまったという。 武井が退去したあと、南八郎(ここからは河上のことを変名の南八郎と呼ぶことにする)や戸原卯橘らから平野や美玉に代官風情に言いくるめられてこんな旅籠で悠長に戦の準備など出来るかと言い、直ちに代官所を占拠するべきだと言った。 これに対し、平野は代官所を無理に占拠するのはよくない、今しばらく時期を待つのが妥当と答え、双方またもや強行、自重の対立が始まった。互いに激しく言い争いが続き、沢卿が自分の不徳の致すところで、自分が責任を取って腹を切ると言い出し、議論は収まったが、結局は強硬派の議論の勝利となった。そうなると直ちに陣容が整えられた。陣容は以下のとおりである。

●総帥 沢主水正宣嘉   ●総帥御側衆  田岡俊三郎(伊予) 森源蔵(阿波)

●総督 平野國臣(筑前) 南八郎(本名:河上弥市 長州)

●議衆 戸原卯橘(筑前) 横田友次郎(因幡) 木曽源太郎(肥後)

●軍監 川又左一郎(水戸) 小河吉三郎(変名:大川藤蔵 水戸)   ●録事 藤四郎(筑前)   

●使番 高橋甲太郎(出石)   

●節制方 中島太郎兵衛(高田村) 美玉三平(薩摩) 多田弥太郎(出石) 堀六郎(筑前)

●周旋方 中條右京(出石) 太田六右衛門(竹田村) 太田悟一郎(竹田村)

●農兵徴集方 黒田与一郎(高田村) 長曽我部太七郎(阿波)

●兵糧方 小国謙蔵(地役人) 小川愛之助(地役人) 大田仁右衛門(生野町)

また、沢卿の名で宣言書(激文)が起草された。執筆は多田弥太郎、補筆は平野と美玉が行った。


 先年開港以来 御国体ヲ汚シ奉り小民共困窮致シ候ヲ 御憂慮遊バサレ 度々関東へ攘夷ノ勅下シナサレ候ヘ共 終ニ属シ奉ラズ朝廷ヲ蔑シ奉ル。 剰サエ毒薬ヲ献ジ候処 皇祖天神ノ保護ニ依り玉体恙無ク在ラセラル。 然ル処八月十七日奸賊松平肥後守始メ偽謀ヲ以テ禁門ニ乱入シ関白ヲ幽閉シ公卿正義ノ御方々ノ参内ヲ止メ御親兵ヲ解キ放チ言路ヲ隔絶シ恐多クモ今上皇帝逆賊ノ囲中ニ在ラセラル。実ニ千秋ノ一時ノ大厄ヲ醸シ恣ニ三条公始メ毛利宰相父子ヲ所置セラレ候始末 不倶載但馬ノ国ハ人民忠孝ノ情厚ク南北朝ノ時ニモ賊足利ニクミセズ皇威ヲ揚ゲ国体ヲ張り候条聞コシ召サレ兼テ頼母シク 奇特ニ思シ召サレ候 早々馳セ集り大義ヲ承り叡慮ヲ奉り奸賊ヲ退ケ震襟ヲ安シ奉ル可ク候事       

 癸 十月  

沢主水正但馬国家旧家並ニ有志之人々 江

◎10月12日 生野代官所占拠

 午前2時、陣容が整うと直ちに出陣の用意に取り掛かった。物々しい様相に丹後屋太田治郎左衛門は代官所に注進した。これを聞いた元締武井庄五郎はただちに密使を出石に差し向けた。

 やがて、南八郎の率いる少壮派たちは代官所を包囲した。役人どもが歯向かうようなら切り捨てる気構えであったが、婦女子には一切手荒な真似はしないように言い伝えた。やがて表門が開かれると一斉に突入した。しかし、代官所側は刀を捨てて一切戦う意思が無いことを示し、南八郎は元締武井に対し、当分代官所を拝借すると言った。また、南は御持ち出しになられる品物があれば随意持ち出されよと、寛大に措置を取った。また、武井もなかなかの人物で、代官所内にある槍などの武具は事前に穂先などを削り、あまり使えないようにしてあったという。 

 午前4時、無血で占拠した代官所に沢卿らが到着した。

 宣言書を携え、各村々に黒田興一郎、長曽我部太七郎ら農兵徴集方や、地役人たちが農兵招集に奔走した。午前10時頃から農兵たちは集りだし、正午頃には2000人余りの兵が集った。

 本陣に集った兵の前に沢卿ら首脳が現れ、沢卿は床の間の上段に座し、側には平野、南、美玉、長曽我部、多田らが甲冑をつけて居並び、本多素行が烏帽子姿で今回の義挙の大意を告げた。やがて、式が終わり、農兵たちは銀山町の来迎寺に引き移った。

 午後6時、本陣ではまたもや軍議が二つに分かれた。一つは生野に籠り、敵を迎え討とうという者。あるいは軍を整えて丹波路から京へ進出し、大和追討の諸藩の兵と一戦交えようというものなど、強行派と出石、豊岡、姫路などの諸藩の追討が寄せる風聞を知り、兵器が未だ不十分ということなどから自重すべしとこの期に及び意見はまとまらなかった。

 この頃、代官所元締の武井は密使を豊岡、姫路へと送っていた。

◎10月13日 南八郎ら出陣するが、生野本陣は解散する。

 前日に武井から送られた密使は出石に午前8時頃に到着し、出石藩は早速出陣の用意を行い、一番手は生野に向かい出陣した。一方、生野本陣では美玉三平は大阪の薩摩藩の有志あてに義挙の勧誘状を送っていた。

 しかし、軍議は未だ一致せず、このときの様子を銀山新話にこう記されている。沢殿曰く、「竹田町より京都正義の方へ急々勢揃の上、此処へ下向いたすべき旨申し遣わすといえども当時京都にても時々に変事これあり、時節、これとても当に成り難し。そのうちに南に酒井(姫路15万石)、北には仙石(出石3万石)、京極(豊岡1万5千石)、東は篠山(青山氏6万石)、福知山(朽木氏3万2千石)、宮津(本庄氏7万石)、柏原(織田氏2万石)等寄せ来たらばいかに防戦すべきかな」と、有りければ、南八郎進み出て、「仙石始め加令一時に攻め寄せ候とも、某、黒田(興一郎)に勇士14,5人を賜え。山口(山口村)へ砦を構え、要害堅固に防戦に及べば、仙石、京極取るに足らず。南より酒井寄せ来らば、森垣(森垣村)、追上(追上峠)2ヶ所の内、美玉(三平)始め長曽我部(太七郎)、多田(弥太郎)等、地役人農兵引き具し、追上峠よりポンペン放ちかくれば、酒井勢大半討たれ、進む敵はこれあるまじく、君(沢卿)の御側には平野、本多(素行)両士等守護あらば心安き事」と、安気に申しければ、平野曰く、「南公(南八郎)は若武者ゆえ、左様に思い召され候得共、この軍中は容易ならず仙石、京極のみにあらず。三丹一所に攻め寄れば大敵なり。」その時、多田進み出て、「なにぶん無勢にて所々へ手を分け候こと、はなはだ以って危うし。某、所存は峠の切り所に陣を布き敵寄せ来たれば逆路にポンペン打ち付ける時は、岩屋谷津村子までは寄る共、一人近寄る事ある可らず。陣屋付近なれば万事駆引き自由なり。」と申せば、南八郎気色変じ、「全体この度の企て違いに相成り、勢い揃い兼ねる杯。足下方申され候へ共、諸方の集り勢、当に致し多勢小勢、杯論ずるは、必竟(ひきょう)臆病神の付くに似たり。仮令無勢にても心を一致して身命を抛(なげう)ち、精神貫き発せば何千騎の寄手なりとも、蹴散らして一人も通す間敷。黒田殿は此の辺地理委しき事ゆえ、采を取り指揮いたすべし。」とある。南八郎はこのあと、来る出石、豊岡勢に備えた。

 午後2時、南八郎ら少壮派、山口村に出陣する。生野の村は今や戦かと大騒ぎになっている。諸藩の追討に対して、南らは生野からさらに東北に二里ほど離れた山口村西念寺を陣取った。南はその後、ここから北へ十丁程のところに妙見山を知り、午後4時にはそちらに陣を移している。要害堅固な妙見山のほうが陣としてはふさわしい。早速、農民に兵器、兵糧を運ばせた。ここなら諸藩の兵が押寄せても様子が一望出来るし、大砲を撃つにも絶好の場所である。それにくらべ、生野の陣地ではたとえ楠正成以上の軍師がいても諸藩の包囲を防ぐことは出来ないであろう。南らは山頂にある妙見堂の祠の周りに陣幕を張り、陣容を整えるとすぐに生野の陣営に至急移動するように使いを出した。

 しかし、この頃も生野の陣営では相変わらず議論は続いていた。南らが出陣し、残された大方の意見は自重説である。今、諸藩を迎え討とうとしても勝ち目がないという意見が多かった。山口にいる南らのもとに多田弥太郎が説得に向かった。銀山新話にはこう書かれている。「銀山本陣より多田弥太郎早馬にて駆け付け、(沢卿からの)書簡差し出す。南八郎披見(ひけん)して打ち笑い、出石勢近寄り候に恐怖し、この出張(でばり)を開くべしとは片腹痛し。美玉始め平野等の諸勇士は酒井勢討ち入りに備え、某は此所にて仙石勢、相防ぎ此所より一人も通すまじき。云々。」

 南らを説得できず、多田は黒田興一郎と共に沢卿のいる生野の陣営に戻り、沢卿に但馬脱出を勧めた。銀山新話に「山(妙見山)より下り、黒田と論判時を移し、本陣に帰り沢主水正殿に申上げ候は、妙見の砦に罷り越し、御書簡相渡し種々論説仕り候得共、且つ又仙石勢押寄せ候はば、いたずらに後悔仕り候ても無益の儀に御座候間、早々御動座しかるべしと諌めければ、その儀しかるべしと一決す。」

 午後10時、生野本陣解散する。

 終に軍議が一致しないまま、沢卿は多田弥太郎、田岡俊三郎、森源蔵、高橋甲太郎、木曽源太郎、関口泰次郎らを従えて、生野本陣を脱出し、栃原口から千町峠へと向かった。しかし、その頃まで、脱出とは知らず、巡視とばかり思い込んでいた関口は、真弓橋(生野町)に出陣していた前木鈷次郎に事の次第を伝えるために一行から離れ真弓橋に駆けつけた。

◎10月14日 志士の脱出、山伏岩の自刃。

 午前2時、沢卿他6名が生野を後にし、解散状態となった本陣は、山口村妙見山にいる南八郎らを残して、他の志士たちの逃走が盛んになった。平野國臣、横田友次郎は八代(朝来市八代)から建屋(養父市建屋)の北垣晋太郎宅へ向かい、美玉三平、中島太郎兵衛と弟の黒田興一郎、堀六郎は山口村から神子畑(朝来市佐嚢)へ抜けた。

 また、沢卿と分れた関口泰次郎は真弓橋で前木鈷次郎と落ち合うと、沢卿但馬脱出を伝えた。真弓橋には藤四郎、仙田淡三郎も居たので関口を先導として共に沢卿の後を追い、生野の町を後にした。

 午前6時、豊岡藩の一番手は高田村の蓮正寺に着陣、午前8時には姫路藩も出陣している。

 午前10時、妙見山に籠城している南らのもとに伊藤龍太郎が訪れた。伊藤は生野本陣における沢卿以下、その他の同志たちの本陣脱出を伝え、ここで討死するのは犬死だと南らに再挙を促したが、南らはこのまま長州に帰る気は無く、一戦交える覚悟と言ってこれに応じなかった。しかし、中條右京と長曽我部太七郎は伊藤の説得に応じ、共に下山することになった。

 そのころ、小河吉三郎(大川藤蔵)は能座村のサケジ谷(朝来市山内)というところにいた。伊藤が妙見山の南らの陣に行く前に、小河は南らと共に妙見山にいる同藩の川又左一郎を訪ねた。午前5時頃に沢卿本陣脱出の噂を聞いた小河は、川又にこれを伝えたあと、南に下山の説得をしたのだった。小河は川又と下山したあと、大村辰之助と丹後の片山九市にあった。地の利がある片山を案内役として、丹波路に入ったころに百姓たちが後をつけてきた。農兵として駆り立てられた百姓たちは、近隣諸藩の追討を知り、沢卿一行の本陣脱出を知ると彼らに騙されたと思っていた。やがてサケジ谷にさしかかったあたりで、百姓らは激しく発砲してきた。小河は百姓に殺されるのならと、その場で自刃した。小河の介錯をした川又は大村、片山と共に縄にかかり、出石藩に引き渡された。

 午後4時、妙見山に訪れた伊藤龍太郎に説得され、下山した中條と長曽我部は生野に戻り、伊藤の案内で追上峠(神崎郡神河町)まで来ていた。ここから姫路街道に落ちるつもりであった。伊藤と別れ二人は猪篠村に向かったときに百姓どもは追跡していた。浪人待てと言い放ち、発砲する。まず中條は胸板を撃ち抜かれ、長曽我部は自刃しようとしたところを狙い撃ちされた。

 午後4時半ごろ、美玉、中島兄弟は三方(宍粟市三方町)あたりで堀六郎に軍用金を渡して先行させ、木の谷に来ていた。後ろからは百姓が500人近く押寄せて発砲してきた。怒った美玉は刀を振り回して百姓を追い払ったが、猟師の銃弾に胸板を射抜かれた。

 中島兄弟は側の民家に逃げ込み、中島太郎兵衛は自刃、弟の黒田興一郎は兄の介錯をしたあと自ら縄に就いた。先行していた堀は美玉らが木の谷に着く1時間前に通過し五十波(宍粟市山崎町)で関口らと合流し三田尻に逃れている。

 同じ頃、山口村妙見山にいた南八郎らは、生野で討死の覚悟で下山していたが、沢卿をはじめ、義軍を偽浪士と思い込んでいる百姓らは南ら少壮派に空砲を放ってきた。農兵召集で駆けつけてきた百姓らは幕府側の追討の火の粉が浪士たちのせいで己に降りかかると恐れている。物の分らん百姓めと切りかかろうともしたが、百姓相手に討死してもと思っているところに、岩津村(朝来市岩津)の大川勇平という者が実弾を放ち、これが浪士の胸板を射抜いてしまった。倒れた浪士を2、3人で担いで山伏岩と呼ばれる大きい岩陰に運び、続いて皆もその岩陰に回った。彼らを恐れて、百姓らは近ずくことは出きず、しばらく睨み合いが続いたが、もはやこれまでと、山伏岩の岩陰でまず南八郎が切腹、続いて9名が切腹、全員の介錯をしたのは戸原卯橘。

 彼は介錯をしたあと山伏岩に登り、百姓たちに武士の最後を見よと大喝し、腹を一文字に切り、喉を突いて同志たちが死んだ岩陰に転がり落ちて壮絶な最後を遂げたという。

 午後8時、南八郎ら少壮派が壮絶な最後を遂げた山伏岩に出石藩は検分に駆けつけている.。

◎10月15日、平野國臣捕縛される。

 沢卿一行は13日の夜から山中をさまよい続け、午前6時に白口(宍粟市一宮町)に辿り着き、地元民に銭を与えて間道を案内してもらい、峠を越えて美作路を使い三田尻に落ちた。

 午前10時、平野と横田は14日に広谷(養父市広谷)の旅籠材木屋で止宿し、駕篭を使って上網場村にさしかかったところで豊岡藩勢と出くわしたため、円山川沿いの京屋という旅籠に逃げ込んだが、豊岡藩兵に包囲され、川舟で豊岡に護送された。

 また、その頃姫路街道を南下していた本多素行も新町(神崎郡福崎町)の樽屋という旅籠で姫路藩兵に捕縛されている。

 午後3時に姫路藩は生野の入り口にあたる森垣村に布陣し、午後4時に森垣村延応寺に潜伏中の江上庄蔵を捕らえた。

 午後4時、出石藩勢は生野町の6箇所の各寺に陣を張り、生野の警護を固めた

◎10月23日、川上代官、倉敷より戻る。

 生野の騒動はその後、百姓たちの矛先が庄屋の方に移り、暴動化し、山東町のあたりでは打ちこわしなどが多発したが、生野の市中も日増しに落ち着きを取り戻していった。

 19日には避難していた代官婦人が生野代官所に戻り、倉敷に出張中であった川上代官も23日に帰町した。

 余話として、11月16日に代官所の剣術指南であった伊藤龍太郎は、その後も生野に潜伏していたが出石勢に捕らえられ、出石藩の獄舎から京の六角獄へ搬送されている。

 また、沢卿と共に行くのを逃れたが、途中はぐれてしまい、しばらく大坂に潜伏していた多田弥太郎は、因州へ逃れるために城崎まで戻っていたところを出石藩に捕らえられ、出石に搬送中に浅間峠(豊岡市と養父市の境)で斬殺される。

 そして平野國臣以下、今回の義挙で捕らえられた人たちであるが、その後は京の六角獄に送られ、大半が元治元年(1864年)の禁門の変の大火の折に斬首された。

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