宝暦治水−岐阜県輪之内町

円楽寺(枡屋伊兵衛墓)
          
 宝暦治水の難工事の一つに大榑川の洗堰工事があった。長良川と大榑川の落差が3mもあり激流のため工事がはかどらなかった。その場にいあわせた江戸は神田の紺屋町(生まれは養老郡上石津)の桝屋伊兵衛が「これはきっと水神様のお怒りかもしれません」「人柱を立てなくては、お怒りは収まらないかと思います。」と話し自ら人柱となった。藩士達は伊兵衛の死を無駄にすることなく努力し難工事を完成させた。

舛屋伊兵衛の墓 法名 釈誓終往生 宝暦5年3月29日

 舛屋伊兵衛は養老郡多良(今の上石津町)の生まれで、多良の水行奉行高木内膳の下人でした。 江戸神田紺屋町に住んでいましたが、高木内膳に従って宝暦四年九月多良に帰郷しました。伊兵衛は大榑川の洗堰工事がなかなか進まないのを見て「水神の怒りを鎮めなければならない。そのためには人柱が必要だ」と進言し、自ら濁流に身を投じたと伝えられています。円楽寺の慈賢和尚は、伊兵衛の霊を手厚く葬りました。死没の年月日は、幕府にはばかって工事竣工の翌日になっています。

アクセス→岐阜県安八郡輪之内町大藪1865
江翁寺(永山市左衛門盛次・郷田喜八・永田埜左衛門・籾木稲右衛門・濱嶋紋右衛門・市右衛門墓)
          
江翁寺薩摩義士の墓
 江戸時代の宝暦年間、薩摩藩の御手伝普請により木曽三川の治水工事が行われました。その時に犠牲となった薩摩義士、6名の墓が祀られています。6名はいずれも工事の貴任をとり、割腹自害された方々の墓です。

淡交如水居士 永山市左衛門 宝暦4・9・9
大方養安居士 郷田喜八   宝暦4・11・9
一雲清無居士 永田杢左衛門 宝暦4・9・15
月海澄舟居士 籾木稲右衛門 宝暦4・11・3
賀屋玄慶居士 浜島紋右衛門 宝暦4・9・23
海雲道巨信士 市右衛門   宝暦4・9・1

 大正13年、大薮町教育委員会により江翁寺境内に散らばっていた墓を現在のように集められました。
 永山市左衛門、籾木稲右衛門、浜島紋右衛門の3名は三之手工事現場の薩摩方貴任者4名中の3名です。
 永田杢左衛門、浜島紋右衛門の子孫は鹿児島県と滋賀県に健在であり、浜島紋右衛門の出身地は、鹿児島県郡山町であることが判明しています

アクセス→岐阜県安八郡輪之内町楡俣新田775
片野萬右衛門の碑
 宝暦治水によって造られた大榑川洗堰を、私財を投じてまで維持管理し、治水事業に活躍した片野萬右衛門を感謝した碑。
アクセス→岐阜県安八郡輪之内町大薮
宝暦治水三之手出張小屋跡
          
宝暦治水三之手出張小屋跡(部分) 平成10年3月2日指定  輪之内町教育委員会

薩摩藩による宝暦4年(1754)〜5年のお手伝い普請「大榑川洗堰」築造などの際工事のため出張小屋が大藪の庄屋渡辺勘右衛門の屋敷におかれた。当時の渡辺家の屋敷「一本松屋敷跡」はその面積1515坪(約500u)に及ぶ。現在この地の中52坪(約170u)が町に寄附され大藪地区戦没者墓地となっている。

輪之内町教育委員会

アクセス→岐阜県安八郡輪之内町楡俣新田
薩摩堰治水神社・薩摩堰遺跡
  
 薩摩堰(洗堰)とは、増水時、長良川と大榑川との高低差が3m近くあり長良川の水が大榑川に滝のような激流で流れ込むため大榑川に堤防を作るはずだったが、堤防で締め切ると長良川下流で洪水になる恐れがあるため締め切らずに洗堰を作ることになった。洗堰とは堤防のようなものだが、出水が1.2mまでは石堰で水を堰き止めそれ以上水位が上がると、この石堰を乗り越え大榑川へ緩やかに流れ込むようになっていた。明治時代の三川分流工事で埋められたが最近地底から発見された。
アクセス→岐阜県安八郡輪之内町大藪
心岩院(八郎左衛門墓)
          
心巌院薩摩義士の墓

墓碑 宝暦四年戊天 皈真體道禅定門 薩州鹿児島之内 小山田住八郎左衛門

 この墓は、現在の鹿児島県姶良郡加治木町小山田に住んでいた八郎左衛門のものと伝えられています。宝暦治水工事は、江戸幕府が宝暦3年(1753)薩摩藩に命じた御手伝普請で、木曽三川の洪水対策工事です。工事は、莫大な費用と多くの薩摩藩士を犠牲にしました。特に大榑川の洗堰築造工事は難工事で、病充する者、工事遂行の責任や幕府への抗議などから自害する者が続出しました。八郎左衛門もこうして自害した一人です。こうした犠牲のうえに現在の輪之内町があるのです。

アクセス→岐阜県安八郡輪之内町大榑13024
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