宝暦治水−三重県桑名市

海蔵寺(薩摩義士24士墓)
  
  

 薩摩藩士たちは、幕府の冷酷極まる圧迫に自害したり、流行病で病死した者が多数いたが、治水工事の場で死んだ者ゆえに、寺々も幕府を恐れて葬いを拒否した。
 たまたま海蔵寺にきてそのことを言ったところ早々弔いをと、快く承認し真夜中に寺の裏の竹藪の中に埋葬した。
 海蔵寺には平田靭負公と二の手工事、四の手工事で亡くなった24名の墓がある。
 永吉惣兵衛・音方貞淵・江夏次左衛門・藤崎伊右衛門・野村八郎右衛門・濱島喜左衛門・本田甚五兵衛・崎本才右衛門・四本平兵衛・川上島右衛門・家村源左衛門・仲間長助・山本八兵衛・鬼塚喜兵衛・茂木源助・井出上渡右衛門・永田伴右衛門・恒吉軍太郎・前田兵右衛門・薗田新兵衛・永山孫市・滝聞平八・俗名不詳(すべて割腹)

 宝暦年間、木曽、長良、揖斐三大川の治水工事に際し、御手伝普請(おてつだいふしん)に当った薩摩藩士の工事の難関に処してよくこれを克服したがその間悪疫に、紛争にまた重大な工事費の超過など責任を負って殉職した24名の墓所(三名の墓碑は湮滅)である。
 この24名は凡て割腹した藩士ばかりで、中央は総奉行平田靱負(ゆきえ)正輔(法名 高元院殿節岑操大居士・宝暦5年5月25日 52才)の墓碑である。   薩摩義士顕彰会  海蔵寺

海蔵寺(薩摩義士墓所)
 薩摩義士とは、当地力に度々水害をもたらした木曽・揖斐・長良三大河川の治水工事による薩摩藩85名の犠性者を言います。この工事は、宝暦3年江戸幕府より薩摩藩に命じられ、工事奉行平田靱負他藩士約950名と予算30万両で始められ約一年半の工期で完成したが、この間85名の犠牲者と、多大な工事費用を費やしました。これにより長年荒れ狂った大河川も制御されたのです。
 当寺には、工事終了後大幅な予算超過と多数の藩士を失った責任を負い切腹した奉行平田靱負の墓碑を中心に24義士の墓があります。
 義士によって築かれた油島(岐阜県海津市)の堤防には数千本の松が植えられ、現在も千本松原と呼ばれて偉大な功績跡を残しています。

アクセス→三重県桑名市北寺町10
長禅寺(和田善助墓)
薩摩藩士1名が葬られています。和田善助(病死)

アクセス→三重県桑名市東方町
長寿院(上田金左衛門・永山嘉右衛門・徳田助右衛門墓)
 桑名藩4代目の藩主松平定行の夫人(薩摩藩主島津家久の養女)が亡くなった時、実家の宗旨が臨済宗であったため、陽向院の宗旨を改め、菩提寺とした。
 定行が伊予松山に国替えとなった後を受けて、5代目の桑名藩主となった松平定綱は、定行の弟であったので、寺はそのまま桑名に残った。定綱は夫人の法号「長寿院殿月窓貞泉大禅定尼」をとって寺名を「長寿院」と改め嶺室和尚を開山とした。
 墓所扉の紋は松平家の「梅鉢紋」である。
 長寿院にはこの他、松平定綱と沢庵禅師との交友を示す「沢庵禅師書簡(市指定)」や宝暦治水の犠牲になった薩摩義士の墓3基、江戸後期の学者駒井常宿の墓がある。

平成8年 桑名市教育委員会

アクセス→三重県桑名市寺町(海蔵寺左前)
常音寺(松崎仲右衛門・森権四郎・尾上半兵衛・田中善兵衛・六兵衛墓)
 お墓の後ろには鹿児島の花などが植えられている。またこのお寺内に薩摩義士事績顕彰会がある。

 この常音寺は、室町時代の応永11(1404)年、時宗の末寺として開基されましたが、のち第二次大戦後、浄土真宗大谷派に改宗されました。
 木曽三川は流域が広く、百輪中と言われるほど多くの輪中があり、川の流れは複雑でした。このため常に洪水の危険にさらされ、この流れを修正する必要がありました。
 そこで江戸幕府は、寛延元(1748)年の工事に続く第二期工事として、宝暦4・5(1753・1754)年に、薩摩藩に命じ、いわゆる宝暦治水を実施させました。
 こうして、薩摩藩は長期間にわたる難工事の結果、40万両(薩摩藩収納米二年分)という多額の借財を背負いこんだのです。
 また、薩摩藩は、総奉行平田靱負(ひらたゆきえ)以下84名の犠牲者を出しました。このうち次の5名の菩提寺(ぼだいじ)が常音寺です。
 松崎仲右衛門〔宝暦4年8月3日割腹〕  尾上与兵衛〔宝暦4年7月12日病死〕
 六左衛門(性不祥)〔宝暦4年8月28日病死〕  田中善兵衛〔宝暦4年10月15日病死〕
 森権四郎〔宝暦4年12月8日病死〕
 なお現在常音寺には、昭和10年に建立された墓碑一基のほか、治水工事全犠牲者の大きな位牌(多度町戸津故西田喜兵衛氏寄贈)をまつっています。

             桑名市教育委員会

アクセス→三重県桑名市多度町香取
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