宝暦治水−岐阜県海津市

円成寺(薩摩工事義歿者の墓)

割腹した薩摩義士13名が葬られている。
稲富市兵衛・吐田軍七・貴島助右衛門・藤井彦八・石塚仁助・鮫島甚五右衛門・横止治左衛門・仲間八内・関右衛門・角助・八郎兵衛・俗名不詳

 宝暦3年(1753)12月25日、徳川幕府は薩摩藩に濃尾三大川の治水工事を命じた。薩摩藩は家老平田靭負以下一千余名の義士を派遣し、40万両を越える巨費と、藩士80数名を失うという犠牲をはらって、宝暦5年5月に見事に完成した。世にいう宝暦治水工事、日本治水工事史上、最難工事の一つである。総奉行平田靱負は工事完成のあかつき、一切の責任を負って5月24日早朝養老郡大巻の館で切腹自刃した。

 南濃町も、この工事の際、三の手工事の区域として安江谷・山崎谷・羽根谷・徳田谷・志津谷の改修工事及び津屋川の洲浚渫工事等19か所に及ぶ工事をうけた。

 故郷を遠くはなれた美濃の地において、あらゆる辛苦に耐えぬき、ひたすら工事完成に尽瘁された藩士の功績と労苦を偲ぶとき、私たちは畏敬と感謝のおもいを一層深くするものである。

 当墓所には、この工事のさなかに割腹された十三士の墓所があり、毎年四月、盛大に慰霊祭をとり行い、その遺徳を偲んでいる。

湛月浄円居士 宝暦四年八月廿二日 割腹 萩原勘助貞次

義峯宗卓居士  同年 八月廿四日  同 石塚仁助

自天養心居士  同年 九月十日   同 鮫島甚五左衛門

雲津梁門居士  同年 九月十一日  同 横止治左衛門 (横山治左衛門?)

枯岩意休居士  同年 九月十九日  同 稲富市兵衛

應相栄元居士  同年 九月廿日   同 吐田軍七

諦元清空居士  同年 九月廿一日  同 貴島助右衛門

善好理元居士  同年 九月廿三日  同 藤井彦八

実相本休信士  同年 六月廿六日  同 永田佐右衛門 家来 関 右衛門

自現覚了信士  同年 七月廿七日  同 弟子丸小右衛門 家来 角助

観元永喜信士  同年 十月十日   同 仲間 八内

空山道鉄信士  同五年三月十三日  同 野村藤蔵 家来 姓名不詳

元山道永信士  同年 四月廿八日  同 若松円積 下人 八郎兵衛

アクセス→岐阜県海津市南濃町太田66
三川分流碑
  
木曽川下流改修(明治改修)

 木曽川下流改修(明治改修ともいう。)は、木曽、長良、揖斐の三川下流部を対象に、洪水の被害を防止する、舟航の便を図る、悪水の改良を行うことを主な目的として、明治20年(1887)から同45年(1912)までの25年間に行われた。

 往時、木曽、長良、揖斐の三川は支派川を通じて互いに連絡していたため、「四刻八刻十二刻」と称される三川の出水時差の影響もあって、下流部は水害を重ねて受けていた。このため地区内の雨水やかんがい排水など悪水の排除も悪く、元来低湿地に多く存在する輪中は、水腐れの害を受け、その害も甚大であった。

 薩摩義士で有名な「宝暦治水」は、宝暦4年(1754)年から2年にわたって行われたが、この工事によってこの種の被害は緩和されたもののなお抜本的なものでなく、やはり毎年のように洪水に苦しめられていた。

 このため、明治政府はオランダ人技師デ・レーケ氏を招聘し、木曽川下流改修計画を樹て改修工事に着手した。この改修工事は、いわゆる「三川分流工事」と称されるもので、洪水防御のためにも、また悪水の疎通を図るためにも三川を分流して高水、低水時ともに、互いの水位差による影響を断つのが得策であるとして、行われたものである。木曽川下流改修計画の主な内容は、新川開削、派川および油島洗堰の締切りによる三川の完全分流、舟運の便を図るための船頭平閘門の設置、低水路を固定するための長大水制(ケレップル水制)の設置、内水位低下を図るための牧田川、津屋川の揖斐川合流点引下げ、河口部の導流堤設置等である。

 なお、この三川分流工事竣功を記念して、木曽川と長良川の背割堤上流端に「木曽三川分流碑」が大正12年に建てられている。   国土交通省

アクセス→岐阜県海津市 木曽川右岸 木曽・長良背割堤北端
油島千本松原締切提
          
 宝暦治水工事最大の難工事はこの油島締め切り工事だった。油島より約10Km上流で木曽川と長良川が合流する。このあたりは木曽川と揖斐川の水位の差が約2.4mもあるため木曽川の水が揖斐川に流れ込み洪水を起こしていた。今のような工事機械のない当時ではこの流れをくい止める堤防を作ることは不可能だと誰もが考えていた。それを薩摩藩の人たちはやり遂げた。最終的には約500mほど締め切らなかった。なぜなら締め切ったら木曽川の東側すなわち尾張藩に洪水の危機にさらされるから・・・。実際にこの場所に立つと高低差を実感できる。
宝暦治水碑
 千本松原の最南端 油島新田締切工事洗堰 一番猿尾の跡地にこの宝暦治水碑がある。明治33年に建てられた宝暦治水がはじめて世に認知された碑だ。

 宝暦治水の遺業を顕彰するため、岐阜県海津郡海津町油島地内、約550坪の跡地に、当時の建築費2600円をかけて「宝暦治水碑が建てられた。

 石碑は、高さ2.7m、幅1.5mの根尾川石で赤坂山から発掘された天然石を台石とし、建碑祭は明治33年4月22日午後3時より現地において、当時の内閣総理大臣山県有朋など政府の高官多数が参列する中、厳粛にしかも盛大に行われた。

 この建碑式は、三川分流成功式に引き続いて行われており、参列者は、成功式の行われた海津町成戸より鵜飼船24艘に乗って、油島まで来た。裏面には工事において散華された藩士の芳名が刻まれている。

            

内閣総理大臣元帥陸軍大将正二位勲一等功二級候爵 山県有朋 篆額

枢密院書記官長従三位勲二等 小牧昌業 撰文 正五位 日下部東作 書

 尾張・美濃両国の田野は、広く肥沃な地なり。木曽・長良・揖斐の三大川あり、南流し伊勢湾に入る。支流入り乱れ、或は合し、或は分かる。集落はその間に在り、俗に輪中という。長雨のたびに川は荒れ、水溢れて堤は切れ折々に田畑を潰し、家屋は流失した。里人は昔から洪水で苦しんできた。

 宝暦三年、幕府は薩摩藩に治水工事を命ず。藩主島津重年は家老平田靱負・大目附伊集院十藏等をつかわし工事にあたらせた。宝暦四年二月工事開始、同年五月一時中止。夏期は増水し工事が捗らないためだ。同年九月再開、翌年五月竣工す。藩の財産三十万両を支出して工事を成す。幕府は讃えて重年に季節の衣服五十着を賜い、他の者にも賞を与えた。工事に従事した藩士およそ六百人、六十余キロの区域を四区に分割し進めた。総奉行は靱負、腹部業は十藏。幕府は役人を派遣して監督させた。堤の修復、水路を掘り、水門や堰を構築、蛇篭を積み重ねるなど創設、或は修復する。遠近で働く者互に気脈を通じ、もっこやすきを振った。一番力を尽くした工事は、油島喰違堤と大榑川洗堰の築造なり。想うに油島は木曽・揖斐両川の合流点で激流逆まき、大榑川は長良川の水を受け 河床低く水勢激しく、難工事で作っては壊れた。多くの困難を克服し互いに支え合い完成を見る。

当時の状況を調べると、要点は諸川の流れを良くし、洪水の憂いを除くことにあった。この二点が急務で、油島・大榑川の工事に全力をそそいだのである。これによって輪中地帯の水渦は減少し、里人は安心して生業に励み今日に至る。世にこれを薩摩工事という。後世の三川分流計画はこの工事に基づく。

 事を終えた総奉行平田靱負は程なくして自刃す。他に前後して自害する者数十名あり。義歿者は桑名の安龍院・海蔵寺等の諸寺に葬り、芳名を過去帳に載せた。だが死因については記録なく明かでないが、里人の言に「工事の悩みは意外に多く、作業しばしば崩壊し、ために経費は超過した。さりとて挫折する事も出きず、死を覚悟して事を成就し、費用を増資した罪を詫びたのである。想うに当時の藩士の気風は素直で気どらず、規律を重んじ正義を尊ぶ。命令を果さずば止まぬの気概に満ち 心痛の余りやむなく死に至った。」と里人の伝うること信なり。

されば当時の役割や難工事を想い見るべし。藩士の心ざし堅く、身命を投げ打ちておおやけに従い、職責を果して恵みを後世に残した。すなわち昔からいうところの死を以って務め、功徳を民に施した者といえよう。まことに誉れ高いことである。

 以来百五十年を経る。里人今に至るも偉業を讃えること忘れず。話が義歿者の事に及ぶとすすり泣きする者あり。明治の世になり色々な事が新しく変った。くらしも便利になり、さまざまな害も無くなってきた。三川分流工事も施行され完成も間近である。この地の人々、現代の深き恩恵に感じ、宝暦治水の功績を偲び、義歿者を悼み、その偉業を忘れないようにと有志と謀り石碑を建て、事蹟を刻んで後世に伝えるため私に撰文を求める。辞する事出きず工事のあらましを述べた次第である。

   明治三十三年二月

アクセス→治水神社南
治水神社
  
 昭和13年5月に油島締め切り堤防上に宝暦治水工事での犠牲者の霊をなぐさめるために大正14年より有志によって宝暦治水奉賛会が設立され全国に募金を呼びかけその浄財で建てられた。毎年4月25日に春の大祭が行われる。本当は平田靭負公の命日である5月25日に行う予定があいにくこの地方の農繁期にあたるため一ヶ月繰り上げて行われている。
治水観音堂

 治水神社の北西に治水観音堂がある。この観音堂には異郷にて果てられた平田靭負公並びに80余名の義士の尊い御霊が鎮座している。10月25日の秋の大祭は観音堂前にて行われている。

内藤十左衛門顕彰碑

 彼は薩摩藩の人ではあなく、美濃国在住の水行奉行高木家の家来で幕府方のたった一人の切腹者でした。

 彼が工事をしていた二の手工事の庄屋との折り合いが悪く工事の不備を指摘され、高木家に責任が及ぶのをおそれ、自らの責任として宝暦4年4月22日宿所としていた弥富町百姓彦八方で自害した。弥富町の鐙玄寺に石碑がある。

アクセス→国営木曽三川公園・木曽三川公園センター近くにある すぐわかる
平田靱負翁像
水との闘い−宝暦治水のあらまし

 日本の治水事業の中で最大の難工事と言われた宝暦治水は、幕府が薩摩藩の勢力を衰えさせるため命じたものであります。宝暦4年(1754年)1月 総奉行平田靱負をはじめとする947名の藩士を美濃に派遣し始められました。

 工事区域は、三川下流全域の193ヵ村におよび その工事は幾多の悪条件のもと宝暦5年5月に完了、工事総額は、40万両という巨額にのぼり、又この工事で多くの藩士が命を落とす結果となり、平田靱負は全責任を負い割腹 「住みなれし 里も今更 名残にて 立ちぞ わずらふ 美濃の大牧」という辞世の句を残しました。

 薩摩義士の尊い遺業を讃えるとともに歴史的遺産を後世に伝えるため建立したものです。

 平成7年(1995)11月3日 平田靱負翁銅像建設委員会 会長 横山善郎書

アクセス→海津市平田町 平田公園
常栄寺(黒田唯右衛門清唯墓)
          
岐阜県指定史跡 海津市指定史跡 昭和56年5月19日指定

薩摩義士 黒田唯右衛門の墓

 薩摩藩お手伝普請による第一期治水工事は宝暦4年5月下旬に終り、同年9月下旬からの第二期工事起工までの間、薩摩お手伝方は工事材料の材木の伐採、搬出、石材・砂利・切土の収集、輸送に当たった。これら材料の収集はお手伝方の昼夜を分かたぬ必死の努力にもかかわらず遅々として進まず加えて普請済み場所の破壊等の支障が続出し作業は困難を極めた。この間にあける幕府側の督促は非常に厳しく再三にわたりお手伝方は歯をくいしばって耐えたが悲憤の中、責を負って切腹する者が相次いだ。宝暦4〜5年の全工事、期間中の割腹者は52名であったが、特にこの準備期間中の割腹者は36名を数え、この時期にあける幕府役人の圧迫や仕打ちがいかに冷酷苛烈であったかを物語っている。

黒田唯右衛門は、三ノ手工区に属し、大薮の出張小屋詰めであったが、宝暦4年7月7日切腹した。その理由は詳らかでないが、他と同様幕府の迫害と、いやがらせに対して、死を以て抗議したものであろう。想像を絶する苦難の中、遠く薩摩の地を離れた異郷で果てていった唯右衛門の胸中は如何ばかりだったろうか。

墓石は、中央に「妙法宗言信士」左右に「宝暦四戌歳七月七日」と刻されている。  岐阜県・海津市教育委員会

アクセス→岐阜県海津市平田町今尾3118
国営木曽三川公園・木曽三川公園センター
このタワーから油島堤防がよく見える。
アクセス→岐阜県海津市海津町油島255-3
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