宝暦治水−岐阜県羽島市

薩摩義士之碑(薩摩義士公園)
          
碑文より

 木曽 長良 揖斐の三大川流域は年々出水毎に洪水の惨害にあい住民は極度の飢餓と疲労の生活に苦しんでいました 宝暦三年徳川幕府は薩摩藩に木曽 長良 揖斐の三大川の治水工事のお手伝普請を命じました
 日本土木史上でも希な治水大難工事は薩摩藩の運命がかかったもので総奉行平田靱負以下一千余名の薩摩藩士が昼夜を分かたず一年有余の日月と40万両余に及ぶ財を費やし幾多の困難辛苦の末漸く工事は完成しましたが薩摩藩の財政極度に困窮しその上迫害圧迫に悲憤慷慨のあまり自刃せし者50数名 不幸にして病に倒れし者30数名に及び総奉行平田靱負はその責を負って割腹されました
 羽島市は木曽長良の二大川に囲まれ 宝暦治水一の手工事として木曽川筋の石田村一番水刎続150間 石田村猿尾200間 石田村猿尾250間 駒塚村加賀野井逆川の合流堰79間 竹鼻村逆川州浚1500間 三の手工事として長良川筋の堀津村渡し場まで水刎杭出80間 堀津村猿尾70間 堀津村渡し場州浚450間等幾多の血涙の事蹟がある

    平成3年4月23日  有志代表

羽島市竹鼻町飯柄178  土方政彦   羽島市小熊町4丁目595 川瀬好雄

アクセス→岐阜県羽島市福寿町 羽島大橋左岸
石田の猿尾
  
 「猿尾」とは治水工法の一つで、川の水勢を抑えるために岸から川の中央部に向かって突き出した土手のようなもの。岸から細長く伸びて、まるで猿のしっぽのように見えるのでこの名がついた。
 その材料は石や土砂などが主で、流されないように竹で編んだカゴに石などを詰めて蛇籠を造り、それを水中に沈める「籠猿尾」が一般的。
 宝暦治水でも各河川の要所に猿尾が設けられた。その一つ、この石田の猿尾は木曽川の水を対岸の佐屋川に押し出して水の流量を減らすことや護岸を目的として築造されたもので、難工事の末約6ヶ月をかけて完成した。このとき造られた長さ150間と200間の2つの猿尾は、現在もなお原型を保っている。
アクセス→岐阜県羽島市石田町・木曽川右岸
逆川締切の洗堰 水神社
          
 この春日神社境内はかっての旧堤であるが、そこに水神社が祀られている。水神社は宝暦治水の逆川締切工事の際、堤防鎮護のため勧請されたものと伝える。逆川は、天正14年(1586)の大洪水で現在の木曽川が生じた際、この地で、分派して竹鼻を抜け、足近川と合流して長良川へ注いだ。分派するあたりは急流で水害が多かったという。この逆川の洗堰による締切工事は、宝暦4年(1754)11月に着手され、同5年3月に竣工した。工事は、お手伝方二階堂与右衛門らの薩摩義士によって進められたが、洗堰の長さは18m、高さは3mもあり、これを石で築立て蛇篭でくるむ難事業であった。

昭和61年3月吉日  羽島市教育委員会

アクセス→羽島市下中町加賀野井
清江寺(瀬戸山石助・平山牧右衛門・大山市兵衛墓)
          
 江吉良町の清江寺にまつる三義士はいずれも濃尾平野の治水工事のため、宝暦4年幕命を奉じて遠く薩摩から当地に来住し、一の手出張小屋(下中町石田)に入り、木曽川の改修と逆川の締切りの難工事に当っていた。
 第一期工事は大体3月中旬早くも完成したが、間もなく雨期に入ると共に密命された人々の破壊活動が始まったので、これを根絶するためにやむをえず逆川堤上において斬殺した。これが幕府の忌諱にふれて自責の念にもたえず先ず瀬戸山石助が8月9日割腹し、続いてその初七日の8月15日平山牧右衛門氏、さらにその初七日の8月21日に大山市兵衛氏と相次いで自刃して相果てた。
 清江寺の住職鉄船師は深く三義士の死をいたみ、禁を犯してねんごろに寺内に葬った。
 尚、瀬戸山・平山・大山の三義士はそれぞれ次の辞世を残している。

○今茲(ここ)に死する身こそはくつれども 我が誠心は千代に伝えも  瀬戸山石助
○膽(たん)をなめ薪に寝(いね)てなしたれど 繕(つくろ)へざるは財布尻なり 平山牧右衛門
○濁る身も何時(いつ)の世にかは浮びなん 鉄の御船のろかいたよりに  大山市兵衛

昭和63年11月再建  羽島市教育委員会

アクセス→岐阜県羽島市江吉良町
少林寺(甚八墓)
          
 家山紹珍は田代村(薩摩藩)の人で俗名を甚八といい薩摩義士の永山権四郎の中間であった。主人が一の手出張小屋に勤務していたので、共に起居を共にして忠勤を励んでいた。しかし宝暦4年5月病のために死した。そこで当時の住職太霊和尚が、尾張藩北方役所と主人の了解を得てここに葬った。
 紹珍の墓はその後の水禍のため長く荒廃していたが、昭和12年に新しく建立されて、現在にいたっている。

  昭和59年11月再建  羽島市教育委員会

アクセス→岐阜県羽島市竹鼻狐穴740
竹鼻別院(竹中伝六墓)
          
 この人は幕府の直臣で、宝暦4年(1754)薩摩藩が幕命によって実施した木曽三川改修の御手伝普請を監督するため、同年2月当地に来て一の手普請場(市内中、南部)に属し御小人目付となった人である。一の手普請場の第一期工事は3月に完成し、逆川締切などの第二期工事も年内に完了して今はただ検分を待つばかりとなっていた翌年正月13日、突然この竹中氏が竹ヶ鼻村の止宿先旅館藤丸屋平右衛門方に於いて刺刀で自害を遂げたのである。
 これは幕府側としては2人目であって、その理由は遺書もなく不明であるが、29歳という若さと役目柄からみて、恐らくは監督上の責任を負ったものと思われる。寺の過去帳には、その後の年回供養が、村の庄屋と藤丸屋によって長く続けられたと記す。今は墓前の大藤が往時を偲ばせている。

  平成16年3月再建  羽鳥市教育委員会

アクセス→岐阜県羽島市竹鼻町2802
神宮神社 薩摩義士顕彰碑
 神宮神社は桑原輪中の中央に位置し、昔はすこぶる大社であった。
 その後、神社は水害の多発ではなはだ衰微し、神社の辺りは七間江(現在の桑原川)と呼ばれた。
 宝暦4年(1754)薩摩藩のお手伝いによる治水工事があり、総奉行平田靭負らは、この神社に参詣し、工事の無事、早期完成を祈願した。
 この時案内したのは、平田靭負の禅門の友である清江禅寺の鉄舟和尚であった。清江禅寺は、かって神宮の宮寺で、ここから北東1.5kmの地にある。工事で義殺した、一之手奉行瀬戸山石功、同副奉行平山牧右衛門、大山市兵衛を祀る墓がある。寺での義士頌徳祭は毎年盛大に営まれる。
アクセス→羽島市江吉良町
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